第百四話 間に合わぬ者
夜の静けさは、一瞬で消えた。
怒号が飛び交う。
槍がぶつかり、火矢が夜空を走る。
信長が滞在していた屋敷の周囲には、すでに明智の兵が押し寄せていた。
「門を閉じろ!」
「弓を持て!」
「上様をお守りしろ!」
織田方の兵たちが次々と動く。
だが、数が違いすぎた。
信長が連れているのは、護衛を中心とした少数の兵。
まさか味方である光秀の軍勢が襲ってくるなど、誰も想定していなかった。
信長は刀を手に外へ出た。
「上様!」
家臣が止めようとする。
「中へお戻りください!」
「戻ってどうする」
「しかし!」
信長は周囲を見る。
門の向こうから明智軍が押し寄せている。
すでに一部では塀を越えた兵との戦いも始まっていた。
「使いを出せ」
「はっ」
「近くにいる者へ知らせろ。敵は明智だとな」
「ただちに!」
「それと――」
信長が一瞬止まる。
「景継にもだ」
「林道様に?」
「ああ」
家臣が頭を下げ、走り出した。
信長は刀を握り直す。
「まったく」
小さく呟いた。
「最後まで仕事を増やしおる」
その声は、戦の音に消えた。
◇◇◇
明智軍の後方。
光秀は馬上から屋敷を見ていた。
すでに戦は始まっている。
一度始めた以上、止めることはできない。
いや。
止めるつもりもなかった。
「殿」
家臣が近づく。
「東の門を押しております」
「急ぐな」
「は?」
「逃げ道だけは塞げ」
「しかし、上様を逃がせば――」
「分かっている」
光秀は屋敷を見る。
「無駄に兵を死なせるな」
「はっ」
家臣が去る。
光秀は動かなかった。
やがて別の家臣が駆けてくる。
「殿!」
「何だ」
「中より使者が!」
光秀の目が動いた。
◇◇◇
しばらくして。
一人の男が光秀の前へ通された。
信長の家臣だった。
「上様より、お言葉がございます」
光秀は黙って男を見る。
「申せ」
「明智光秀と話がしたい、と」
周囲の家臣たちがざわついた。
「危険です!」
「罠かもしれませぬ!」
光秀は片手を上げた。
声が止まる。
「どこでだ」
「屋敷の中庭にて」
「殿!」
家臣が止める。
光秀は馬から降りた。
「兵を連れていく」
「しかし――」
「信長様が私を呼んでいる」
光秀は屋敷を見る。
「ならば行く」
◇◇◇
戦が一時的に止まった。
完全に静かになったわけではない。
屋敷の外には明智の兵。
中には織田の兵。
互いに武器を握ったまま睨み合っている。
その間を光秀が歩いた。
数人の護衛を連れている。
中庭へ入る。
そこに。
信長がいた。
刀を腰に差している。
数人の家臣が後ろにいる。
光秀が足を止めた。
二人の距離は十歩ほど。
しばらく。
どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのは信長だった。
「来たか」
「……はい」
「随分と大勢連れてきたな」
光秀は答えない。
信長が周囲を見る。
「わし一人に何千人必要なのだ」
「上様ならば、それでも足りぬかもしれませぬ」
信長の口元が少し上がった。
「言うようになったな」
「……」
「光秀」
「はっ」
「なぜだ」
短い問いだった。
光秀は信長を見る。
「昨日話したことが、すべてではあるまい」
「……はい」
「ならば聞かせろ」
光秀はゆっくり息を吐いた。
「上様でなければ、ここまで来られなかったと思っております」
信長は黙って聞いている。
「尾張から始まり、これほど多くの国を従え、天下を一つにしようとした者は他におりませぬ」
「褒めに来たのか」
「違います」
「ならば続けろ」
光秀は信長から目を逸らさなかった。
「だからこそ、私は上様に仕えました」
「……」
「この方ならば戦を終わらせられる。この方ならば天下を一つにできる。そう思ったからでございます」
「今は違うと?」
「天下を取ることと、天下を治めることは違います」
信長の目が細くなる。
「またそれか」
「はい」
光秀は続けた。
「上様は速すぎる」
「また、待てと言うのか」
「違います」
「何がだ」
「もう、待っていただきたいのではございません」
信長が光秀を見る。
「では何だ」
光秀は一度だけ目を閉じた。
そして開く。
「上様に、天下を渡すべきではないと考えました」
周囲の空気が変わった。
織田の家臣が刀へ手をかける。
明智の兵も動く。
信長が手を上げた。
「動くな」
全員が止まる。
信長は光秀だけを見ていた。
「わしでは駄目か」
「……はい」
「お前ならできると?」
光秀は首を横に振った。
「分かりませぬ」
信長の眉が動く。
「分からぬ?」
「私が上様より優れているなどとは思っておりませぬ」
「ならばなぜ討つ」
「上様を止める者が必要だと思ったからです」
信長はしばらく光秀を見ていた。
やがて。
小さく笑った。
「馬鹿め」
光秀の表情がわずかに動く。
「そこまで考えて、最後がそれか」
「……」
「わしを止めた後を考えておらん」
光秀は答えなかった。
「天下は空になるぞ」
「承知しております」
「秀吉もいる。勝家もいる。景継もいる。他にも天下を欲しがる者はいくらでも出てくる」
「はい」
「また戦になる」
光秀の拳がわずかに握られた。
「それでも」
光秀は答えた。
「このまま進ませるよりはよいと判断いたしました」
信長の目から笑みが消えた。
「そうか」
「……はい」
「ならば」
信長が刀の柄へ手を置いた。
「最後までやれ」
光秀が信長を見る。
「上様」
「ここまで来て迷うな」
信長は刀を抜いた。
「わしを討つと決めたのであろう」
光秀も静かに刀を抜いた。
「……はい」
「ならば来い」
◇◇◇
その頃。
景継は馬を走らせていた。
「若様!」
後ろから弥兵衛の声が飛ぶ。
「速すぎます!」
「遅い!」
「これ以上は馬がもちませぬ!」
「替えればいい!」
「どこで替えるんです!」
景継は答えなかった。
使者が飛び込んできたのは少し前。
信長が襲われた。
それだけなら、まだ理解できた。
だが。
敵の名を聞いた瞬間。
景継は何度も聞き返した。
明智。
明智光秀。
「先生が……」
景継は馬を走らせる。
信じられない。
昨日まで普通に話していた。
戻ったら話そう。
そう言った。
光秀も。
そうだな、と答えた。
「若様!」
弥兵衛が追いつく。
「何かの間違いでは!?」
「分からない!」
「明智様が上様を襲うなど――」
「だから確かめに行く!」
景継は前を見る。
まだ遠い。
「間に合わせる!」
手綱を強く握る。
「絶対にだ!」
◇◇◇
信長の刀と光秀の刀がぶつかった。
甲高い音が響く。
光秀が一歩下がる。
信長が踏み込む。
もう一度。
刀がぶつかる。
「殿!」
明智の家臣が動こうとする。
「来るな!」
光秀が叫んだ。
信長の家臣たちも動かない。
二人だけの戦い。
信長が刀を振るう。
光秀が受ける。
「どうした!」
信長が叫ぶ。
「わしを討つのであろう!」
「分かっております!」
光秀が押し返す。
信長が下がる。
再び踏み込む。
何度も刀がぶつかった。
だが。
信長はすでに若くはない。
さらに屋敷を襲われた直後。
それでも光秀と互角に刀を交えている。
「さすがでございます」
光秀が息を整える。
「誰に言っておる」
信長も息が荒い。
「まだ終わっておらんぞ」
再び二人が動く。
その時だった。
外から火の手が上がった。
「火だ!」
誰かが叫ぶ。
戦いの中で放たれた火矢が建物へ燃え移ったのか。
炎が広がり始めている。
煙が中庭へ流れ込む。
信長が一瞬そちらを見た。
その隙に光秀が踏み込む。
刀が交差する。
信長の肩から血が飛んだ。
「上様!」
家臣が叫ぶ。
信長が膝をつく。
光秀の刀が止まった。
「……何をしておる」
信長が顔を上げる。
光秀は動かない。
「光秀」
「……」
「最後までやれと言ったはずだ」
光秀の手が震えていた。
信長はそれを見る。
そして。
小さく笑った。
「できぬか」
光秀が歯を食いしばる。
「私は……」
信長が立ち上がる。
傷口を押さえながら。
「もうよい」
「上様?」
「ここから先は、わしが決める」
炎が近づいている。
信長は屋敷の奥を見る。
「光秀」
「はっ」
「行け」
光秀の目が見開かれる。
「何を――」
「お前はもう戻れぬ」
信長は静かに言った。
「ならば、自分で選んだ道を最後まで歩け」
「……」
「わしの前で止まるな」
光秀は動けなかった。
信長が怒鳴る。
「行け!」
光秀の身体が震えた。
やがて。
深く頭を下げる。
「……御免」
信長は何も答えなかった。
光秀は背を向けた。
明智の兵たちも中庭から下がっていく。
信長の家臣が駆け寄る。
「上様! まだ逃げられます!」
「無理だ」
「裏からなら!」
「外は囲まれておる」
「それでも――」
「もうよい」
信長は炎を見る。
「お前たちは行け」
「できませぬ!」
「命令だ」
家臣たちは動かない。
信長は笑った。
「最後まで言うことを聞かぬ奴らだ」
炎が屋敷を包み始めた。
◇◇◇
景継は走っていた。
馬が限界を迎える。
別の馬へ乗り換える。
再び走る。
遠く。
夜空が赤く染まっているのが見えた。
景継の顔色が変わった。
「……まさか」
弥兵衛も見た。
「若様……」
「走れ!」
「はい!」
「まだ間に合う!」
景継は馬の腹を蹴った。
赤い空が近づく。
煙が見える。
火の粉まで見え始める。
そして。
信長は一人。
燃え始めた部屋へ入った。
刀を置く。
座る。
外から戦の音が聞こえている。
だが。
それも少しずつ遠くなっていく。
信長は机を見る。
焼け始めた紙。
地図。
書状。
そして。
自分が何度も書き続けていたもの。
その中に。
一通だけ。
別にしておいた書状があった。
信長はそれを手に取る。
宛名を見る。
林道景継。
信長の口元が上がった。
「まったく」
炎が柱を這い上がる。
「最後まで来るのが遅い奴だ」
信長は書状を炎から離れた場所へ置いた。
その時。
遠くから馬の音が聞こえたような気がした。
信長が顔を上げる。
「……来たか?」
しばらく耳を澄ませる。
だが。
もう確かめることはできない。
炎が迫る。
信長は目を閉じた。
そして。
ふと笑った。
「結局、また最後に天下へ近づくのは仲達の側なのか」
炎が大きくなる。
信長はゆっくり目を開いた。
「後は頼んだぞ、仲達」
梁が崩れ落ちた。
◇◇◇
「上様!」
景継の声が夜に響いた。
馬から飛び降りる。
目の前には。
燃え盛る屋敷。
「上様!」
走ろうとする。
弥兵衛が景継の腕を掴んだ。
「若様!」
「離せ!」
「無理です!」
「離せ!」
「中へ入れば若様まで死にます!」
景継は振りほどこうとする。
だが。
その瞬間。
大きな音が響いた。
屋敷の一部が崩れ落ちる。
炎が夜空へ舞い上がった。
景継の動きが止まる。
「……上様」
返事はなかった。
ただ。
炎だけが。
景継の目の前で燃え続けていた。




