第百三話 道を変える
天下は、すぐそこまで来ていた。
かつて織田に敵対していた勢力の多くは滅び、あるいは臣従した。
各地では今も小さな争いが残っている。
だが、それはもはや天下の行方を左右するほどのものではない。
織田信長が天下を取る。
それを疑う者は、織田家中にはほとんどいなくなっていた。
だからこそ。
信長の目は、すでに戦の先へ向いていた。
天下を取った後。
何を残し。
何を変え。
どのような国を作るのか。
その日も信長は、景継と光秀を前に地図を広げていた。
「これを進める」
信長が一枚の書状を置いた。
景継が手に取る。
そこに書かれていたのは、織田の支配する土地で行う新たな取り決めだった。
各地に残る関所。
商人から徴収される銭。
土地ごとに異なる決まり。
それらをさらに整理し、織田の支配する地域では一定の形へ統一していく。
高瀬領で始めた改革を、より大きな範囲へ広げるものだった。
景継は書状を読み終える。
「前に話してたものですね」
「ああ」
「思ってたより早いですけど」
「結果は出た」
信長は答えた。
「ならば進める」
景継はもう一度書状を見る。
「全部一気に?」
「できるところからだ。だが、止めるつもりはない」
「それなら私は反対しません」
信長が光秀を見る。
「光秀」
「はっ」
「お前はどうだ」
光秀はすぐには答えなかった。
書状を読み。
地図を見る。
そして口を開く。
「もう少し時間を置くべきかと存じます」
信長の眉がわずかに動いた。
「理由は」
「高瀬をはじめ、改革を始めた土地はまだ完全に落ち着いてはおりませぬ」
「問題は起きておらん」
「今は、でございます」
「ならば問題が起きてから変えればよい」
光秀は首を横に振った。
「それでは遅い場合もございます」
信長が光秀を見る。
「また待てと言うのか」
「必要ならば」
部屋の空気が少し変わった。
景継は二人を見る。
これまでにも意見が違うことは何度もあった。
珍しいことではない。
だが今日は、光秀がいつもより強く食い下がっていた。
「上様」
光秀が続ける。
「天下が一つになろうとしている今だからこそ、急ぎすぎるべきではございませぬ」
「逆だ」
信長は即座に答えた。
「今だから変える」
「なぜでございます」
「戦が終われば、皆が今までのものを守ろうとする」
信長は地図へ手を置いた。
「今までこうだった。昔からこうしてきた。先祖から認められている。そう言って動かなくなる」
「残すべきものまで変える必要はございませぬ」
「残すべきものは残す」
「では、誰がそれを決めるのでございます」
「わしだ」
光秀の表情が変わった。
信長は続ける。
「わしが決める。そのために天下を取る」
「……」
「間違っているか」
光秀は少し黙った。
「上様」
「何だ」
「以前より申し上げております」
光秀の声は静かだった。
「すべての者が、上様と同じ速さで進めるわけではございませぬ」
「分かっておる」
「ならば――」
「だからといって、いつまでも待つつもりはない」
光秀の言葉が止まった。
信長は怒っているわけではない。
ただ。
譲るつもりがない。
「待っておれば、古いものはいつまでも残る」
「待つことも治めることにございます」
「違う」
信長の声が少し強くなった。
「待つだけでは何も変わらん」
「待つだけとは申しておりませぬ」
「ならばいつまでだ」
「それは土地によって――」
「一年か。二年か。十年か」
「上様」
「その間にも、この国は動く」
信長は光秀を正面から見た。
「皆が納得するまで待っていては、何も決められん」
光秀も信長から目を逸らさなかった。
「ならば、お聞きいたします」
「言え」
「上様が作ろうとしている天下に――」
光秀が一度言葉を止めた。
「ついて来られぬ者の居場所はございますか」
景継が光秀を見る。
信長は少しも迷わなかった。
「ついて来させる」
「それでも来られぬ者は?」
「置いていく」
静寂。
光秀は信長を見ていた。
「……置いていく」
「ああ」
「それが上様の天下でございますか」
「そうだ」
信長は答えた。
「全員の歩幅に合わせていては、この国は変わらん」
「しかし――」
「光秀」
信長が遮った。
「わしは、戦を終わらせるためだけに天下を取るのではない」
光秀の目が動く。
「戦が終わっても、今までと何も変わらぬのであれば意味がない」
「変えることそのものが目的になってはなりませぬ」
「分かっておる」
「本当にそうでしょうか」
その言葉に。
景継が顔を上げた。
信長の表情から、わずかに笑みが消えた。
「先生」
景継が口を挟む。
光秀は景継を見ない。
「景継、お前は黙っていろ」
「でも――」
「これは私と上様の話だ」
景継は言葉を止めた。
先生にこんな言い方をされたことは、ほとんどない。
信長も光秀を見ていた。
「光秀」
「はっ」
「お前は、わしの天下では働けぬのか」
光秀の表情が止まった。
景継も何も言わない。
長い沈黙の後。
光秀が答えた。
「……分かりませぬ」
信長の目が細くなる。
「分からぬか」
「はい」
「ならば考えろ」
光秀は頭を下げた。
「御前、失礼いたします」
光秀が立ち上がる。
景継も立とうとした。
「先生――」
「景継」
信長が止めた。
景継が振り返る。
「行かせろ」
「ですが」
「今のお前が追ったところで、何を言う」
景継は答えられない。
「光秀は馬鹿ではない」
信長は光秀が出ていった方を見る。
「自分で考える」
「……はい」
景継は座り直した。
だが。
しばらく仕事へ戻る気にはなれなかった。
◇◇◇
光秀は一人、廊下を歩いていた。
足は止めない。
振り返ることもない。
自分が何に腹を立てているのか。
それすら、はっきりとは分からなかった。
信長の言っていることが理解できないわけではない。
むしろ。
分かるからこそ、苦しかった。
信長でなければ、天下はここまで来なかった。
尾張から始まり。
美濃。
近江。
畿内。
そして中国。
多くの敵を倒し。
多くの者を従え。
戦国の世そのものを終わらせようとしている。
自分もそれを支えてきた。
信長だから仕えた。
信長だから、天下を任せられると思っていた。
だが。
以前、自分が景継に言った言葉が頭に浮かぶ。
天下を取ることと。
天下を治めることは違う。
光秀の足が止まった。
しばらく、その場に立っていた。
やがて。
再び歩き始めた。
◇◇◇
翌日。
光秀は再び信長の前にいた。
景継もいる。
昨日のことなどなかったかのように、信長は地図を広げていた。
「光秀」
「はっ」
「兵を率いて西へ向かえ」
光秀が地図を見る。
「こちらでございますか」
「ああ」
信長は目的地を指す。
「先に動いている軍と合流しろ。そこで次の命を出す」
「承知いたしました」
景継が光秀を見る。
昨日のことが気になっていた。
だが光秀の表情はいつもと変わらない。
信長も何も言わなかった。
「景継」
「はい」
「お前は別だ」
「どこです?」
信長は別の場所を指した。
「ここの処理をしてこい」
景継は地図を覗き込む。
「また私です?」
「嫌か」
「嫌って言ったら変えてくれます?」
「変えん」
「なら聞かないでくださいよ」
信長は無視した。
景継は小さく息を吐く。
「分かりました。行ってきます」
「ああ」
景継は立ち上がった。
光秀も立つ。
廊下へ出ると、景継は隣を歩く光秀を見た。
「先生」
「何だ」
「昨日のことなんですけど」
「景継」
光秀が足を止めた。
「はい」
「今は、お前の仕事をしろ」
「でも」
「私も私の仕事をする」
景継は光秀を見る。
しばらくして。
「……分かりました」
「ああ」
「戻ったら話しましょう」
光秀は少しだけ間を置いた。
「そうだな」
景継は頭を下げる。
「では」
二人は別れた。
景継は自分に与えられた場所へ。
光秀は軍勢のもとへ。
◇◇◇
数日後。
明智光秀は軍勢を率いて街道を進んでいた。
騎馬。
足軽。
槍。
旗。
長い列が道を進んでいく。
家臣たちは信長から命じられた目的地へ向かっているものと思っていた。
光秀も先頭近くを進んでいる。
誰も余計なことを話さない。
ただ軍勢の足音だけが続く。
やがて。
道が分かれた。
本来進むべき道は分かっている。
光秀は馬上から、その道を見つめた。
しばらく動かない。
後ろの兵も次々と止まり始める。
家臣の一人が不思議そうに近づいてきた。
「殿?」
光秀は答えない。
「いかがなされました」
光秀は本来進むべき道から視線を外した。
そして。
もう一方の道を見る。
「止まれ」
号令が伝わる。
軍勢が完全に止まった。
家臣たちが顔を見合わせる。
「殿?」
光秀が馬首を返した。
「道を変える」
家臣が目を見開く。
「は?」
「こちらではない」
光秀が別の道を指す。
「しかし、その道では上様より命じられた場所とは――」
「分かっている」
「では、どちらへ?」
光秀は答えた。
行き先を聞いた家臣の表情が変わる。
「……殿」
光秀はすでに馬を進め始めていた。
「全軍に伝えろ」
「しかし――」
「二度は言わぬ」
家臣はしばらく光秀を見ていた。
やがて。
頭を下げる。
「……はっ」
号令が走った。
一つ。
また一つ。
旗が向きを変える。
数千の兵が、本来進むはずだった道から外れていく。
◇◇◇
夜。
信長は少数の供と共に滞在していた。
いつものように書状を読んでいる。
各地から届いた報告。
兵の配置。
次に行うべきこと。
机の上には、何枚もの紙が積まれていた。
その時。
外が騒がしくなった。
信長が顔を上げる。
「何だ」
返事はない。
代わりに。
遠くから怒号が聞こえた。
続いて足音。
一人の家臣が勢いよく部屋へ飛び込んでくる。
「上様!」
信長が立ち上がる。
「何事だ」
「敵襲にございます!」
信長の表情が変わった。
「数は」
「分かりませぬ! ですが、すでに周囲を囲まれております!」
「誰だ」
家臣が答えようとして。
一瞬、言葉に詰まった。
「申せ」
「旗印は……」
家臣の顔から血の気が引いていた。
「桔梗紋」
信長の動きが止まる。
外から再び大きな声が響く。
兵たちが走る音。
武具を取る家臣たち。
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……光秀か」
静かな声だった。
家臣が頭を下げる。
「はっ」
信長は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして再び目を開く。
「そうか」
信長は立ち上がった。
「武具を持て」
「はっ!」
家臣が走り出す。
信長は刀を取った。
外ではすでに戦の音が始まっていた。




