第百二話 同じ天下を見ながら
高瀬領で新たな仕組みを試し始めてから、数か月が過ぎた。
最初からすべてが上手くいったわけではない。
これまで商人から取っていた銭を減らすと聞けば、収入が減るのではないかと不安を口にする者がいた。
一部の関所をなくすと決めれば、そこで働いていた者たちから反発も出た。
村ごとに違っていた決まりを整理しようとすれば、なぜ今までのやり方を変えるのかと問われた。
景継と光秀は、その一つ一つを処理していった。
すぐに変えるもの。
今は残すもの。
一度試してから決めるもの。
すべてを同じにはしなかった。
そして数か月後。
少しずつ結果が現れ始めた。
「増えてますね」
景継は道を行き交う商人たちを見ながら言った。
荷を積んだ馬。
荷車を引く者。
隣国から来た商人。
以前より明らかに人の往来が増えている。
近くの市場にも、多くの品が並ぶようになっていた。
隣に立つ光秀が答える。
「そのようだな」
「成功じゃないです?」
「まだ早い」
景継が光秀を見る。
「もう結果出てるでしょう」
「一時的なものかもしれぬ」
「先生、慎重ですね」
「お前が軽すぎるのだ」
「でも、商人は増えてますよ」
「増えた者が半年後にも残っているかを見ろ」
「半年?」
「一年でもよい」
「長くないです?」
光秀が景継を見る。
「だからお前は急ぎすぎる」
「それ、先生が上様に言ってたことと似てません?」
光秀の眉がわずかに動いた。
「誰が上様と同じだ」
「いや、先生が慎重な方です」
「ならよい」
二人が話しているところへ、後ろから声が飛んできた。
「何をしておる」
景継が振り返る。
信長だった。
「上様」
「報告は聞いた」
信長は市場を見る。
人が増えている。
商人の声が響き、荷が運ばれている。
信長はしばらくその様子を見た。
「他でもやるぞ」
景継が信長を見る。
「もうです?」
「成功したのであろう」
「先生はまだ早いって言ってます」
「お前はどう思う」
「成功だと思ってます」
「ならばやる」
「いや、だからって全部一気には――」
「できるところから始めろ」
景継が止まった。
「全部じゃない?」
「お前はわしを何だと思っておる」
「全部一気にやれって言うかと」
「景継」
「はい」
「仕事を増やすぞ」
「もう増えてます」
光秀が小さく笑った。
信長がそちらを見る。
「光秀」
「はっ」
「お前はどうだ」
「広げることには賛成でございます。ただし、まずは近江の数か所から始めるのがよろしいかと」
「理由は」
「土地が違えば、人も違います。同じやり方がどこでも通用するとは限りませぬ」
信長は少し考える。
「ならば失敗したところは変えればよい」
「それなら私も賛成です」
景継が言った。
信長は二人を見る。
「決まりだ」
「何か所です?」
「できるだけ多く」
景継は光秀を見る。
「先生」
「私を見るな」
「止めてくださいよ」
「私も広げることには賛成した」
「そうでした」
信長は二人を置いて歩き始める。
景継と光秀はその後を追った。
◇◇◇
高瀬領で試した仕組みは、近江のいくつかの土地へ広げられた。
すべてを同じにしたわけではない。
関所を減らす場所。
商人から取る銭を整理する場所。
市場の決まりを変える場所。
それぞれの土地に合わせて進められた。
多くの場所では、大きな問題は起こらなかった。
商人にとっては、払う銭が分かりやすくなる。
土地を越えるたびに何度も銭を取られることも減る。
人や物が動けば、市場にも利益が出る。
だが。
当然、それを喜ばない者もいた。
ある地域では、古くから関所を管理していた有力者たちが強く反発した。
彼らにとって関所から得る銭は、大きな収入だった。
それを失うことになる。
光秀は彼らとの交渉に向かった。
何度か話し合いが行われた。
代わりとなる権利を一部認めること。
土地については安堵すること。
完全にすべてを奪うわけではない。
光秀は譲れるところを探した。
だが、相手は関所の権利そのものを手放そうとしなかった。
やがて。
一通の報告が信長のもとへ届いた。
信長は読み終えると、短く言った。
「捕らえろ」
その場にいた光秀が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「何がだ」
「もう一度、私が話してまいります」
「必要ない」
信長は書状を光秀の前へ置いた。
光秀が読む。
そこに書かれていたのは、反対している有力者たちが周辺の国人へ使者を送っているという報告だった。
織田に従えば、いずれすべての権利を奪われる。
今のうちに共に反対するべきだ。
そう呼びかけているという。
光秀は書状を置いた。
「話はした」
信長が言う。
「その上で、向こうは別の者まで動かそうとした」
「……はい」
「ならば話は終わりだ」
光秀は反論しなかった。
すでに単なる交渉ではなくなっている。
放置すれば、周囲を巻き込む可能性がある。
「承知いたしました」
主導した者たちは捕らえられた。
領地の一部も没収された。
だが、関係のない家族や村の者まで処罰されることはなかった。
新しい仕組みはそのまま進められた。
しばらくすると、その地域にも商人が入り始めた。
問題は収まった。
信長は報告を聞くと、次の書状へ手を伸ばした。
「次だ」
光秀が尋ねる。
「もうでございますか」
「終わったことにいつまで時間を使う」
「土地が落ち着いたか、もう少し見る必要があるかと」
「ならば見ておけ」
「上様は?」
「次を見る」
光秀は一瞬黙った後、頭を下げた。
「承知いたしました」
信長はすでに別の報告を読んでいた。
◇◇◇
いくつかの土地で成果が出ると、信長はさらに大きな範囲へ目を向けた。
その日。
信長、景継、光秀の三人は大きな地図を囲んでいた。
「関所を整理する」
信長が言った。
景継は地図を見る。
「どの辺りです?」
「織田が押さえているところすべてだ」
景継が顔を上げた。
「全部?」
「必要のないものはなくす」
「一気にです?」
「ああ」
景継は少し考える。
「やること自体は賛成です」
「ならばやるぞ」
「でも一気には反対です」
信長の眉が動く。
「またか」
「高瀬で上手くいったからって、全部で上手くいくとは限らないでしょう」
光秀も口を開く。
「私も景継と同意見でございます」
信長が光秀を見る。
「お前もか」
「関所には、それぞれ置かれた理由がございます。不要なものもあれば、残した方がよいものもございましょう」
「だから調べろ」
「調べる時間が必要だと申し上げております」
三人の視線が地図へ集まる。
信長はしばらく黙っていた。
やがて。
「半年だ」
景継が顔を上げる。
「半年?」
「いくつかの土地で半年試せ」
「それで?」
「問題がなければ広げる」
景継は光秀を見る。
「先生」
「何だ」
「上様、思ったより話聞いてくれますね」
「景継」
信長の声が飛ぶ。
「はい」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言いました」
「仕事を倍にするぞ」
「それはやめてください」
光秀が思わず笑った。
信長も呆れたように景継を見る。
「では場所を選べ」
「今からです?」
「今決めれば明日から動ける」
「やっぱり急いでるじゃないですか」
「半年待つと言っただろう」
「そこじゃないんですよ」
三人はそのまま地図を囲み、試す土地を選び始めた。
◇◇◇
それからしばらくして。
試験的に改革を進めていた土地の一つで問題が起きた。
信長は報告を読み、景継へ渡した。
景継は一通り目を通す。
「私が行きましょうか?」
「そのつもりで呼んだ」
「やっぱり」
「お前が考えたやり方だ。お前が見てこい」
景継が光秀を見る。
「先生は?」
「光秀には別の仕事がある」
「分かりました」
景継は立ち上がる。
「どれくらいで戻ればいいです?」
「片づいたら戻れ」
「一番困る答えですね、それ」
「早く行け」
「はいはい」
「返事は一度だ」
「はい」
景継は部屋を出ていった。
残った光秀が小さく笑う。
「随分と気安くなりましたな」
「昔からああだ」
「上様にあのような口を利ける者は多くありません」
「増えても困る」
信長は次の書状へ手を伸ばした。
◇◇◇
景継が出てから数日後。
別の問題が持ち込まれた。
ある寺社と、その周囲の国人たちが新しい取り決めに反対しているという。
理由はこれまでと似ていた。
長く認められてきた権利。
土地。
商人から得る銭。
それらを守りたい。
光秀は信長の許可を得て、交渉を始めた。
相手側も最初から戦を望んでいる様子ではなかった。
何度か話し合ううちに、条件は少しずつまとまり始めた。
すべてを残すことはできない。
だが一部は認める。
その代わり、織田の定める新しい取り決めを受け入れる。
あと少し。
光秀はそう考えていた。
しかし。
その夜。
新たな報告が届いた。
相手側が兵を集めている。
さらに周辺の国人へ使者を送り、援軍を求めているという。
信長は報告を最後まで読む。
「兵を出す」
光秀が顔を上げた。
「お待ちください」
「何だ」
「もう一度だけ、私に交渉させてください」
「必要ない」
「話はまとまりかけております」
「その間に向こうは兵を集めておる」
「だからこそです」
光秀は信長を見る。
「刃を交える前ならば、まだ止められます」
「違う」
信長の声は静かだった。
「何がでございますか」
「兵を集め、他へ援軍まで求めた。その時点で向こうは戦う選択をしておる」
「まだ刃を交えてはおりませぬ」
「刃を交えてからでは遅い」
光秀は黙った。
「表では話をまとめようとしながら、裏では兵を集める」
信長は報告書を置く。
「そのような者を信用して待てと申すか」
「信用せよとは申しませぬ」
「ならば同じだ」
「ですが――」
光秀はそこで言葉を止めた。
信長が間違ったことを言っているわけではない。
もし本当に相手が戦うつもりなら、準備が整うまで待つ理由はない。
それでも。
「上様」
「何だ」
「私に、あと一度だけ時間をいただけませぬか」
信長は光秀を見る。
「ならん」
短い答えだった。
「兵を出す」
「……承知いたしました」
光秀は頭を下げた。
◇◇◇
戦は長く続かなかった。
準備を始めていたとはいえ、相手は織田軍と正面から戦えるほどの勢力ではない。
織田側が動くと、周辺の国人の多くは援軍を出さなかった。
数日のうちに抵抗は崩れた。
そして戦後。
相手側の屋敷から複数の書状が見つかった。
周辺の国人へ送られたものだった。
兵を出してほしい。
共に織田へ対抗してほしい。
さらに別の勢力へも使者を送ろうとしていたことが分かった。
報告を受けた光秀は、その書状をしばらく見ていた。
信長が尋ねる。
「光秀」
「はっ」
「まだ話すべきだったと思うか」
光秀はすぐには答えなかった。
手元の書状を見る。
相手が戦の準備をしていたことは間違いない。
信長の判断が遅ければ、さらに兵が集まっていた可能性もある。
「……分かりませぬ」
信長が光秀を見る。
「分からぬか」
「上様の判断が間違っていたとは思いませぬ」
「ならば何だ」
光秀は少し考えた。
「私の考えが間違っていたとも、まだ思えませぬ」
部屋が静かになる。
光秀は信長の反応を待った。
信長は怒らなかった。
「ならば考えろ」
光秀が顔を上げる。
「は?」
「お前を置いているのは、わしと同じことを言わせるためではない」
「……」
「違うと思うなら違うと言え」
信長は光秀を見る。
「その上で、最後はわしが決める」
光秀はしばらく信長を見ていた。
やがて。
深く頭を下げる。
「……はっ」
「次だ」
「もうでございますか」
「まだ仕事はある」
光秀がわずかに笑う。
「承知いたしました」
信長も次の書状へ手を伸ばした。
◇◇◇
さらに数日後。
景継が戻ってきた。
「戻りました」
部屋へ入るなり、信長が言う。
「遅い」
景継の眉が動いた。
「予定より早いですよ」
「わしの予定より遅い」
「上様の予定なんて聞いてませんけど」
「今言った」
「それ後出しですよ」
光秀が横で笑っている。
景継は持っていた書状を信長へ渡した。
「とりあえず片づきました」
信長が読む。
「悪くない」
「珍しく褒めました?」
「悪くないと言っただけだ」
「それを褒めたって言うんですよ」
景継は光秀を見る。
「先生」
「何だ」
「こっちは何かありました?」
「あった」
「やっぱり」
「お前がいない間も天下は動いておる」
「また仕事増えました?」
光秀は少し考えた。
「増えたな」
景継は顔をしかめる。
「聞かなきゃよかった」
「安心しろ」
信長が言った。
「まだ増える」
「全然安心できません」
光秀が笑う。
信長もわずかに口元を上げた。
景継は諦めたように座り、机の上に積まれた書状の一つを取った。
「で、どれからです?」
「全部だ」
「聞いた私が馬鹿でした」
三人は再び地図を囲んだ。
戦。
交渉。
改革。
そして統治。
やるべきことは、まだいくらでもある。
それでも。
地図の上で織田に従う土地は、確実に増え続けていた。
天下はもう。
遠くにはなかった。




