3.非日常の入り口
『こんにちは!』
水緒がかろうじてわかるスペイン語の挨拶に、ぎこちなく手を振り返す。
駅近の繁華街に居を構える、メキシコ料理専門店〈アシ・アシ〉の店内はカラフルな織物が飾られ、賑やかな音楽が流れていた。
ちなみに〈アシ・アシ〉とはどういう意味か、聞いてみたら挨拶の定型句とのことだった。『調子どう?』に対する『まずまずだね』という回答。関西で言う「ぼちぼちやな」に近い意味合いらしい。
「今日は俺たちのおごりだから、何か頼んで」
「え……それでは、お言葉に甘えて」
ヨァルに促され、スペイン語と日本語が併記されたメニューを開いて覗き込む。定番はタコスのようだが、おすすめのマークがついた〈ケサディーヤ〉をチョイスした。他にライムソーダも注文する。
シウとヨァルの二人は、タコスに使うトルティーヤの八枚セットをどんとテーブルに置く。二枚ずつに並べ直し、よく焼けた肉を乗せ、カウンターにあるトッピングやソースを自由に盛り合わせていた。
水緒の頼んだケサディーヤが届く。焼けたトルティーヤは香ばしく、中に挟まれたチーズが伸びる伸びる。ほんのりスパイスが香る風味に水緒は満足した。辛いものが苦手なので、このくらいで丁度いい。
タコスを頬張る二人の様子を眺めつつ――具がトルティーヤから盛大にはみ出している。手掴みなので手が汚れるのは避けられないだろう――水緒はケサディーヤを完食した。
「ごめん、ちょっとマオ先生には聞かせたくないことがあってね」
それは、わざわざ声をかけられた時から覚悟していた。アイスコーヒーを片手に話しかけてくるヨァルに、水緒は静かに向き合う。
「この前の、黒い犬のことですか」
「……うん、あれは〈ツィツィミメ〉って言うんだ。日本語で言うと”暗黒の怪物”みたいな言葉になる」
「メキシコの……アステカ神話の時代から存在する怪物だ。俺たちはそれと戦っている」
シウが続けて口を挟んだ。ついでカウンターの方に首をめぐらし、店長とおぼしき壮年の男性と目を合わせ、頷きあう。
「この店は俺たち〈ヤオトル〉――戦士、という意味だが――その拠点になっている。ここでツィツィミメに関する情報を共有し、倒すために動いた。その結果がこの間の夜の出来事だ」
「で、俺たち気づいたんだ。ミオ、君が狙われている」
「えっと……わたしですか? 何故なんでしょう」
「君が〈翡翠ノ司〉だからだ――あぁ、マリア。ちょっとおいで」
小学校の中学年か高学年くらいの女の子が、カウンターの脇からひょこっと顔を覗かせていた。外国人らしい目鼻立ちの、あどけない笑顔。ヨァルの声に呼ばれてトテトテと小走りに駆け寄ってくる。
「マリア、握手。ギュってして」
「うん、ぎゅー」
小さな手がヨァルの指に触ると、ほんのり光が発せられた。
その色は緑――翡翠色をしていた。
「君は気づいてなかったかもしれないけれど。あの夜、君もこんな感じに光っていた。それが〈翡翠ノ司〉の特徴だ」
シウが静かな声で説明を続ける。
「〈翡翠ノ司〉は――女神〈チャルチウィトリクエ〉の神官のことだ。水と愛情を司る女神で、癒しの力のほか、”愛した者の力を増幅する”能力を持つ」
「パパがね、マリアとハグすると、力が湧いてくるんだって。みんなを応援できるの」
少女はトテトテと走り去り、カウンターの奥で店長に頭を撫でられていた。
「翡翠はアステカ王国時代に、金よりも価値の高かった石だ。それは強い生命力を意味する――その光に、ツィツィミメは引き寄せられてくる」
「それで……その、ツィツィミメっていうのは、何がしたいんですか」
「強い生命力の源――心臓を、食らうんだ」
一瞬、場が静まりかえった。店内に流れるメキシコの伝統音楽だけが、場違いな明るさを提供している。
「強い生命力って言うんなら、戦士もそうなんだがな。俺たちは何とか自力で撃退してるんだが〈翡翠ノ司〉はそうもいかない。だから守ろうって話だ」
いつの間にか、テーブルに近寄ってきた店長が話しかけてきた。彼も随分と流暢な日本語だ。腕を組んで、壁に背中を預けている。
「――そういうわけで、ぜひ協力して欲しいなーってところなんだけど……あ、言っておくけど、断ると逆に危ないよ。ツィツィミメの奴らは、俺たちの都合なんかオカマイナシで君を狙ってくると思う」
「そ、そうですか……でも具体的に、どうやって協力すればいいんでしょう」
戸惑う水緒に、シウが畳みかけるように説明する。
「ツィツィミメは夜行性だ。人気の少ない暗い夜道で獲物を待ち伏せる……だから、君の学校からの帰り道が一番危険だ。そこを護衛させてほしい。俺とヨァルが交代で……もしくは、二人がかりで」
「えー……もしかして、最寄駅から家まで、ですか? それは確かに心強いんですけど……」
なんとなく居心地の悪さを感じ、水緒は思わず店長のほうを仰ぎ見た。大男がニカっと笑う。
「こっちにも事情があってな。この二人が最適だと判断した。――ヨァル、お前から説明しろ」
「……う――んとね、戦士の傷の治療とか、そういうのも手伝ってほしいんだけど……その、さっき言ったろ? ”愛した者の力を増幅する”能力って。親愛の力とかなら、さっきのマリアのハグみたいなのでいいんだけど。それより一段深いところに踏み込むと……まあ、めちゃくちゃ強い力になるわけだよ。……ただし、それは一度に一人だけ」
「え?」
「だから……誰か一人、突出して強い奴が出てきちゃう可能性もあるわけなんだ。で、俺たちなんだけど、戦士にはそれぞれ守護神がいる」
「俺がケツァルコアトルで、ヨァルがテスカトリポカだ。この二神が二大勢力で、協力もするが対立もしてる」
「そ、だから君がどっちの勢力につくかはちょっと、大事になるかもしれない。君の力はかなり強い感じがするんだ。だからなるべく公平に決めてもらおうと思って、シウと俺とでそれぞれの神の代表って形になったんだ――言ってること、わかる?」
水緒は軽い目眩をおぼえて思わず額を押さえた。ハグとか手を繋ぐとか、それ以上の関係って。
「いやぁ、別に無理に二人に絞る必要はないぞ、お嬢さん。俺だってマリアの相手がこんなスカした野郎だったら許せねぇからな。そこはちゃんと、自分の意志で選んでくれ」
「そこは……はい、気をつけます……」
項垂れる水緒とは対照的に、店長の笑い声と陽気な音楽が店の中を賑わせていた。




