2.夢と、変わりゆく日常と
――気をつけて。
耳に届くのは、女性の声だった。
暗くて何もわからない。ただコポコポという小さな水音が、時折入り混じる。
――心を許しては、駄目。
母に似た声だと思った。でも違う。この声は、ひどく緊張している。
声をかけたほうがいいだろうか。
迷ううちに、気配そのものが遠のいてゆく……
唐突に響く、流れる水のようなメロディ。スマホの目覚まし音が水緒の耳をとらえた。
いつもぐずってスヌーズ機能のお世話になる水緒だったが、今朝は妙に頭がすっきりしていた。階下で母が朝食の支度をしている、その物音が伝わってくる。
「おはよ」
「おはよう~、今日は早いじゃない」
「ん、なんかね」
トーストとサラダとウインナー二本を、コーヒーで流し込む。キッチンで母が、昨日のハンバーグと一緒に作ったミートボールを弁当箱に詰め込んでいた。
給食からお弁当に、セーラー服からブレザーに。四月から少し変わった日常――水緒も麻緒も、新生活にようやく慣れてきた時だった。
*
「じゃあね、バイバイ」
昨夜の黒髪の男の声が、頭をよぎる。今ではあれは夢だったのではないかと、そんな風にも思えてくる。――だって、消えた黒い犬とか。クラスメイトらとの話題に挙げるのは、なんだか気分が乗らない。
このまま夢か、何かの見間違えか。それで終わってしまうに違いない。そう思っていた矢先のことであった。
「水緒、ちょっといいかしら」
二日後だったろうか、麻緒がリビングのテーブル越しに話を持ちかけてきた。
「あのね、お母さんボランティアやってるでしょ? 日本語講師の」
「うん」
「そこの知り合いでね、急な話なんだけど、生徒の二人をホームステイで預かってくれないかって言われてるの。メキシコ人の男の子二人」
「へぇー」
「なんでも二人一緒にってのが外せない条件らしくて、他の人だと家が狭かったりでいい家が探せなかったんですって。それでうちに」
「……二人かぁ。確かに、うちなら何とかなるかもしれないけど」
父の堅吾は単身赴任中だ。もともと四人家族を想定して作られたこの中古の家なら、確かに充分な広さがある。
「それで部屋割りなんだけど、今の水緒の部屋をその子たち二人の寝室にしようかなって。水緒はお父さんのベッドで、私と一緒の寝室に」
「……まぁ、そうなるかー」
水緒の部屋は子供二人が布団を敷ける広さがある。妥当なところだろう。
「勉強部屋も……お父さんの書斎で何とかならないかしら」
「いいよ、わたしあの部屋好きだし。……まぁ、今でも半分くらいリビング学習だから、そんなに変わらないと思うけど」
「ごめんねぇ。流石にお父さんの部屋を他人に使わせる気にはならないのよ。使うのが水緒なら許してくれると思うわ」
翌日、土曜日に文化センターで。何か荷物があるかもしれないから、念のため水緒も来てほしいと言われ、二つ返事で頷いた。
――メキシコはスペイン語が公用語だから、英語はあんまり通じないらしいわ。でも大丈夫、二人とも日本語すごく上手だし、こっちは普通に日本語で話せばいいだけよ。でないと向こうも勉強にならないし。
最近は翻訳アプリなる便利なものもある。水緒は不安を感じなかった。
「向こうの高校を卒業して一年経ってるから、いま十九歳なんですって。でも大学生とかじゃなくて、アルバイトで働いてるみたいだわ。夜勤もあるそうだから、ちょっと不規則な生活になりそうね……」
麻緒の説明を聞き流しながら、水緒は文化センターのエントランスをくぐり、建物の内部をぐるりと見渡した。ロビーのソファに座っていた二つの人影が、ゆっくりと立ち上がる。その姿を認めた瞬間、水緒は強烈な既視感に襲われた。
一人は、カーキ色のミリタリージャケットを羽織っていた。濃い灰色の髪。同色の瞳が、こちらをしっかりと見据えてくる。
もう一人は癖のある黒髪と黒い目、浅黒い肌でいかにもラテン系といった容姿だった。服装も黒のセットアップで、すらっとした背筋の伸びた姿が印象に残る。彼のほうがわずかに身長が高かった。
「はーい、二人とも。これが私の娘の水緒よ。水緒、グレーの髪の彼がシウ。黒髪の子がヨァル」
「……シウ・ウェマクと言います」
「こんにちは。ヨァル・テポストリです。はじめまして……ではない、と思います」
確かに、立ち居振る舞いに見覚えがあった。暗い夜道で数十分、付き合っただけなのに。
「え、何、会ったことあるの?」
「この前の夜、たまたま見かけたんですよ。なるほど、ちょっとマオ先生に似てると思いました。……ミオって呼んでいいかな?」
黒髪の青年ヨァルが屈託なく笑う。それをもう一人の青年、シウが静かに見つめていた。




