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黒耀の瞳、翡翠の涙  作者: 石崎 英


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1/1

1.月が欠けた夜

 ――今日の午後七時頃から約三時間かけて、日本の広範囲で部分月食が観測される予定です……

水緒(みお)、ネットニュース見た? 月食だってさ」

「見た見た! 今夜は家のベランダでお月見かな」

 四月も下旬、ようやく馴染んできたクラスメイト達と言葉を交わしながら、逢沢(あいざわ)水緒(みお)はスマホをカバンにしまい椅子から立ち上がる。ミディアムの髪を揺らしながら上履きからローファーに履き替え、下校の準備は万全だ。

「じゃ、また明日」


 月が地球の影に隠れる、所詮はただの天体現象である。だが数十年に一度あるかないかのイベントだ。こんな他愛もないことでお祭り気分になれる、水緒はそれがなんだか嬉しかった。

 高校から駅まで徒歩五分、電車に揺られること約十五分、最寄り駅から徒歩で約二十分。自宅に近づくにつれ、周囲の喧騒がおさまってゆく。

「おかえり~、水緒」

 母の麻緒(まお)はいつにも増して朗らかだ。水緒にはわかる、だいたいこういう時は、母が料理を張り切った結果なのだ。

「今日はお月見だから、ハンバーグと目玉焼きでロコモコ風ね」

 どっちも好物の水緒は、ありがたくご馳走を頂戴した。


 生まれて初めて見る月食は、いつもと違う月の欠け方が印象的ではあるものの、いまいちぱっとしなかった。

「皆既月食だったら、もっと凄いんだろうけどねぇ。ま、これはこれで味があるってものでしょ」

 いつも楽天的な母を横目に、水緒は明日の課題のチェックをしていた。筆記用具のポーチを手に取った時点ではっと気づく。

「――やだ! シャーペンの芯、無くなったんだった。お母さん、買い置きある?」

「ええ? ……無いわね、もう。もう少し早く言ってくれれば、ホームセンターが開いてたのに……」

 壁の時計を仰ぎ見ると、夜の九時を過ぎたところだった。月食に夢中でいつの間にか、こんな時間になってしまっていた。

「うーん、明日までギリギリもたせるかなー」

「明日買いに行ってもいいけど……なんかお母さん、忘れそうだわー」

 そうなのだ。麻緒に頼むと結構な確率で買い忘れをしてくる。結果、二日や三日待たされることも少なくない。

「やっぱいいや、今からコンビニ行ってくる!」

 母から千円札を一枚預かり、水緒は部屋着にスニーカーという姿で夜の住宅街を飛び出した。


 念のため、HBの替え芯を二つ買って帰路につく。

 徒歩十分の位置にあるコンビニは、値段が高いと文句を言いつつも、何かとお世話になることの多い存在だった。月は相変わらず、欠けた姿を晒して闇夜に浮かびあがっている。

 ――グゥ……ルル……ゥ……

 腹に響くような唸り声に、水緒は思わず周囲を見渡した。行く手の暗がり、地面から一メートルほどの高さに、光る点が二つ見える。

 野良犬だろうか。水緒が思ったそれは吸い込まれそうな黒さをしていた。一歩、二歩。黒が広がることでそれが近づいてくるのがわかる。水緒の背筋にひそやかな恐怖が走る。

 ――逃げなきゃ! 

 咄嗟に思い浮かぶ思考に任せ、水緒は横道に入り込もうとした。その動きに触発されたであろう黒い犬は、グゥルァアアと吠えながら駆け寄ってくる。

 ――駄目、噛まれる!

 恐怖に身を竦ませた水緒は、思わずぎゅっと目を瞑る。

 その時、何かが近づく気配がした。


 ――ギャウンっ!

 異物の混入したような、濁った音。水緒が目を見開くと、眼前には光と影があった。

 自分よりひとまわり大きな、黒い人影の背中。光はその影の掲げた、右手の部分から発していた。

 黒い犬は弾かれたかのように遠のき、後ずさりしながらもまだ吠える。

 ――キシャァアアッ‼

 またも黒い犬が迫りくる。人影はそれを左腕でガードし、光る右腕で鋭いフックを放った。

 男の人だ、ダークカラーのジャケットを羽織っている。乏しい光源で水緒が確認できたのは、その程度のことだった。

 ングッとくぐもった音を響かせ、犬はまたしても飛びのいて距離をとり身構える。低く長い唸り声が、水緒の耳を不快に撫で続けるかのようだった。

 対峙する犬と男、その睨み合いが続く。いつまで続くのか、耐えきれず水緒が男へ声をかけようかと、その身を乗り出した時だった。


 ヒュンっと、鋭い音とともに一条の光が夜空をかすめた。その光は黒い犬を直撃し、肩のあたりを貫く。態勢の崩れた犬を見るや否や、眼前の男が犬に飛びかかり、その頭部を殴りつけた。

 ――グゥ……ゥオオ……ォン……

 遠吠えが残響する中、犬は頭部から黒い塵のように崩れ、散り散りになってゆく。水緒はその様子を茫然と眺めていたが、響く靴音に気がついて、その音のするほうを見やる。

 さっき光が飛んできた方向からだった。現れたのはもうひとつの人影。黒髪、黒い上下の服。最初に現れた男よりも、もっと黒い姿を見せていた。

『うまく狙えたな』

『……”石”の無駄遣いだ。あのままでも十分勝てた』

 知らない言葉だ。黒い男の短い問いかけに、最初の男が答えたところを水緒は横から伺い見る。おそらく日本人ではない、彫りの深い顔立ちだ。黒かと思った髪と瞳は濃いグレーで、近寄ってきたもう一人の黒い男と比べると、いくぶん色素の薄い印象を受けた。

 もう一人の男もやはり、日本人ではない様子だった。癖のある黒髪、黒目に浅黒い肌。その彼がこちらに顔をゆっくりと向け、笑顔をつくって水緒に語りかける。


「大丈夫? 怪我、してない?」

「あ……はい、大丈夫です」

 今度は日本語だった。英語が通じるかどうかと身構えていた水緒は、内心で安堵した。

「怖かったかな。見てもらったとおり、今日の夜は危ない。家まで送ってあげるよ」

「え……、でも」

 見ず知らず、初対面の男二人を前に水緒は躊躇いを見せる。それまで黙っていた最初の男が口を挟んだ。

「本当に危険なんだ。一緒に行かせてくれ」

「……は、はい」

 言葉に気圧されて水緒は承諾した。月はそろそろ、欠けが戻る頃合いだった。

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