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スピンオフ・茜編 第1話「変わらない仕事、変わる世界」

カップにお湯を注ぐ。

静かに広がるコーヒーの香り。


「……いつも通り、だよね」


茜はカウンターの向こうで蒸らしの時間を計りながら、ぼんやりと呟いた。


「おい、茜。ぼーっとしてるぞ」


陽翔の声にハッとし、慌てて注ぎの工程に戻る。

カウンターに並ぶのは、異世界の客たち。

貴族、商人、騎士、旅人……どの顔も、最初に転移してきた時には考えもしなかったものだった。


「ご注文のコーヒーです」


彼女は目の前の常連客にカップを差し出す。


「おお、ありがとう。今日もいい香りだ」


コーヒーを受け取ったのは、王都の商人ラース。

彼は嬉しそうにカップを傾けると、満足げに微笑んだ。


「まったく、不思議なものだな。最初は異国の奇妙な飲み物だと思っていたが、今ではこれがないと落ち着かん」


「ふふ、それは光栄ですね」


自然と微笑みながら返事をする。

ここで働くのは、彼女にとって日常になりつつあった。


しかし――


(いや、ちょっと待って……ここ、異世界なんだよね?)


心のどこかで、まだその事実に慣れきれない自分がいる。


***


茜がKICHIJOJI COFFEEでアルバイトを始めたのは、まだ日本にいた頃の話だ。

大学卒業後、新卒で入った企業でメンタルのバランスを崩し、退職した。のんびりアルバイトでもしてやりたいことを探すかと考えていた頃、陽翔の店を見つけた。


最初は「コーヒーなんてブラックでしか飲んだことないし、正直そんなに興味ない」と思っていたが――

気づけば、豆の種類や淹れ方を覚え、コーヒーの奥深さに触れ、いつの間にか「好き」と言えるようになっていた。


だから、この異世界に転移しても、彼女の中で仕事自体は変わらなかった。


朝になれば店を開き、コーヒーを淹れ、客に出す。

異世界人の「初めてのコーヒー体験」に驚く顔を見るのは、ちょっとした楽しみになっていた。


だけど――


(……本当に、それでいいのかな)


今はまだ、それが分からなかった。


***


異世界の人々と、自分の居場所


「おーい、茜!、カフェオレ、あと二つ追加で頼める?」


「オッケーでーす」


陽翔の声に反応し、ミルクを温める準備をする。

カウンターの向こうでは、騎士団の一人が同僚と談笑していた。


「それにしても、最近は貴族の屋敷でもコーヒーが出されるようになったそうだぞ」


「そうなのか?」


「俺はまだここでしか飲んだことがないがな」


そんな会話を聞きながら、茜は温めたミルクをコーヒーに注ぐ。

そっとカップを渡すと、騎士たちは興味深そうに覗き込んだ。


「ミルク入りか……これはまた、優しい香りだな」


「一口飲んでみるといいですよ。ブラックとはまた違う風味が楽しめます」


彼らは慎重に口をつけ、次の瞬間、驚いたように目を見開いた。


「……おお、なんだこれは」


「ブラックのコクがありつつ、まろやかで飲みやすい」


「俺は苦いのが苦手だったが、これなら毎日でも飲めそうだな」


「それなら、次はカフェラテを試してみてください。もっとミルク感が強くなりますよ」


「カフェラテ?」


「はい、同じコーヒーでも、比率を変えるだけで味が全然違うんです」


楽しそうに説明している自分に、ふと気づく。


(あれ……? なんだろう、この感じ)


最初は戸惑ってばかりだった。

けれど、こうして客と接していると、「コーヒーを通じて人と繋がれる」ということが、実感として分かってくる。


「……よし」


彼女は気持ちを新たに、次のオーダーに向かう。


***


カウンターの奥でその様子を見ていた陽翔は、小さく笑った。


「茜も、だいぶ馴染んできたな」


「最初は戸惑っていたけどな…コーヒーを淹れる手つきも、客とのやり取りも」


隣で同じく彼女を見つめていたエレインが、ふっと微笑む。


「この店にとって、もう欠かせない存在だな」


「もちろんだ」


陽翔は小さく頷いた。


***


異世界で生きるということ


その日の営業が終わり、店を閉める準備をしながら、茜はふと手を止めた。


「……私って、これからどうなるんだろう」


日本での生活が戻るのか、それともここでずっと生きていくのか。茜には親、兄妹はいない。施設で暮らし、大学には奨学金で通った。


自分は行方不明ってことになってんのかな。

施設のみんなは心配しているかもな…


「今は分からない。でも――」


少なくとも、今この瞬間は、目の前にあるカウンターと、陽翔とエレインと、この店がある。


コーヒーの香りに包まれながら、茜は小さく微笑んだ。

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