709号室の姫君。part2
「夢……でも言ったけれど、わたしは昔――確か五歳頃までは目も見えたし、自分の足で歩くこともできたの。だけど、ある時から、急にその両方ともを失ったの」
「ある時から?」
「ええ。小さい時のことだからよくは憶えていないけれど、きっとわたしがこうなったのは家が火事になってからだと思う。どうして家が火事になったからわたしがこうなったのかは全く解らないけれど」
「火傷とか、何かケガをしたわけじゃなかったっていうことか?」
「まあ少しはしたわよ。でも大した怪我はしなかったはず。『火傷がほとんどなくて、それだけは本当によかった』って、叔父さん――あ、ここの院長さんをやってる、わたしの叔父さんが何度も言っていたから」
「……そうか。ちなみに、その火事の時の状況で憶えていることはあるか? 無理に思い出す必要はないが、なんとなく目に残ってたり、妙に気にかかったりするようなことが」
「気にかかってること……? ええ、確かに一つあるわ。わたしね、そのころ犬を飼っていたのよ」
「犬?」
「うん、飼い始めたばかりの子犬。わたしね、その火事の日は一人で留守番をしていて、二階の自分の部屋にいたの。そうしたら急に、家の中で飼っていたその犬が一階で鳴き始めたのよ。それで、どうしたんだろう――って思ってるうちに、すぐに部屋の中が煙っぽくなってきて、『まさか火事なんじゃないか』って慌てて階段を下りようとしたら段を踏み外して階段から落ちて――それで、そこからは、その……」
「ああ、もう大丈夫だ。無理には思い出すな」
饒舌に回っていた口が鈍り、そして苦しいような表情で深く考え込み始めた様子の琴音を見て蓮は慌てて口を挟む。しかし、琴音は柔らかく微笑みながら首を振った。
「ううん、大丈夫よ。でも、思い出せるのはどうしてもそれくらいまで。全身が痛くて立ち上がれなくて、頭もだんだんぼんやりしてきて、ララを――犬を助けに行きたいけど、どうすることもできなくて――気が付いたら、もう……この部屋にいたわ」
「そして、目も見えなくなって、足も動かなくなっていた……か」
蓮が付け加えた言葉に、琴音は小さく首肯する。
「うん。――でも……やっぱり、わたしはこれでいいのよ」
「……? どういう意味だ?」
「だから、さっき、そ、その……れ、蓮が、『どうにかできる』って言ってくれたけど……うん、わたしは大丈夫よ。別に何もしてもらわなくても」
「どうしてだ」
思わぬ琴音の言葉に蓮は驚く。琴音は、蓮の名を初めて呼ぶときにややぎこちなくさせていた微笑を元の柔らかなものに戻して、
「わたし、正直を言うとあまりここから出たくないの。すごく居心地いいのよね、ここ」
と、ベッドの脇に付けられた柵へ雪のように白い腕を載せ、細い指先でそれを撫でた。
「……そうか。まあ、お前がいいって言うんならこのままでも構わないが……本当に、それでいいのか? お前にも、ずっとここに閉じこもるだけじゃなくて、外で何かできることがあるんじゃないのか?」
『社会貢献をせよ』などというらしくないことを言っていると自覚しながらも、なぜかそうせずにはいられずに蓮が言うと、琴音はその微笑に差している陰をふと濃くした。
「ええ……。確かに、こんなわたしにだってできることはあるかもしれないわ。でも……ね、そう考えていたら、わたし、気がついたのよ。もしわたしにもできることがあってそれをしたとしても、きっとそこには、そのわたしにできたことの価値なんて消えてなくなっちゃうくらいの周りの人の苦労があるんだ、って。そんな迷惑をかけるくらいなら、わたしはやっぱりここにいたい。わたし、もう、そう決めているから……」
鮮烈な赤い夕日に染まる病室で、琴音はそう言った。ここではないどこか遠くへと向けているようなその微笑みには、悲しく冷たい、しかし確かな決意のようなものがあった。
自らの境遇を深く考え、これから先の自分のあり方を決意した人間に対し、いたずらに不確定な希望をちらつかせるなどということは、その決意に対する愚弄というものに外ならない。しかしそうと解っていても、蓮は言わずにはいられない。
「ああ、そうかもしれない。きっとそれも一つの人生だろう、お前がそう生きると決めたんなら俺にはどうすることもできない。……だが、そこに救いはあるのか?」
「救い……?」
琴音は少し驚いたような顔でこちらを見た。しかし、すぐにその顔には儚げな微笑が戻る。
「救い――なんて、ないのかもしれないけれど、それは別に仕方がないのよ。だって、わたしには明日なんてないんだから」
「……?」
「だって、光の見えないわたしには昼と夜の区別が付かない、朝が来ても解らないもの。そんなわたしには昨日もないし、明日もない。この胸の鼓動が続く限りずっと今日が続くの。だから、明日が来る――『今日が終わる時』っていうのは、つまり、わたしの鼓動が止まった時っていうこと。わたしには永遠に明日なんて来ないの。それなのに、そんなわたしが未来に期待するなんておかしいでしょ? 要するにそういうこと。だから、わたしはこのままでいいのよ」
うん、と、自分で自分を貶めるような話に相槌を打って、琴音は無言の時間を作るまいとするようにすぐに訊いてきた。
「それで? これが解ったら、あなたに何ができるの? あなたはわたしに何をしてくれるつもりだったの?」
何をしてくれるつもりだった――
琴音が、もう全て終わった話にしていることにやりきれない感情を抱きつつも、この悲しげな微笑とともに語られた言葉が偽りであると切望するように蓮はその問いに答えた。
「……俺は、夢を『喰』う仕事をしている」
「夢を、『喰』う……?」
「いや、正確に言えば、夢を入り口にして、その夢を見ている人間の記憶を操作することを仕事にしている。簡単に言えば、今は持ってないが俺の家に昔から伝わる『箱』を入り口にして人の夢に入って、その夢の中でその人の記憶を意図的に改変するんだ」
「『箱』……?『記憶』……? なに、それ? 箱庭療法みたいなもの?」
「違う。心理療法じゃなくて、本当に夢の中に入るんだ。お前の夢の中にも入っただろ? ああやって、誰か――まあ、大抵その『誰か』はターゲットのわけだが、そのターゲットの夢に出た俺自身を俺が乗っ取るという形で、『箱』を入り口にしてその夢に侵入するんだ」
「……ふーん」
と、琴音は平坦に鼻を鳴らして、
「ごめんなさい、よく――いえ、全く、意味が解らないわ」
「ああ、だろうな。説明しにくいんだ、これは。けど、まあここまでの話では、俺が他人の夢に侵入できるっていうことさえ理解してくれていればそれでいい。で、話を進めて、俺がそこで何をしているかというと、さっき言った通り、夢を『喰』っている」
「『喰』う……?」
「ああ。夢っていうのは、その人の意識と無意識、記憶と感情、そして本能だとか想像なんかが全て混ぜ合わされて生み出された生命の結晶――つまり生きる力そのものだ。『喰』えば、それは確実に自分の生命力となる」
「食事……っていうこと? 本当に食べるの?」
「いや、実際に俺が喰うわけじゃなくて、俺が夢に持ち込んだ『箱』に『喰』わせるんだ。その『箱』は、呼倉家――俺の家を囲む庭の四方あたりに生えている松の木と榊の木を合わせて作られたもので、つまりあの土地を小さく模したようなものになっている。それを清酒と呼倉の血に漬けて、そこに霊性を帯びさせることによって、持ち主はそれを単なる入り口とするだけでなく、夢の世界にまで持ち込めるようになっている――らしいが、あの『箱』は俺が作ったわけじゃないから詳しいことは解らない。解るのは、俺の家が先祖代々、あの『箱』を入り口にして人の夢の中に入って、その人の願い事を色々と叶える報酬として、その『喰』った夢の力を、呼倉家の土地、人間に生命の力として受け取らせてもらってきたってことだ。おまけに多額の対価を貰いながらな」
「へ、へぇ……」
と、琴音の顔があからさまに困惑に引きつる。が、顔を引きつらせながらも興味は湧いているのか、尋ねてくる。
「ところで、その『願い事』って……さっき言ってた、人の記憶の改変、とか……?」
「そうだ。というか、それどころか、人格の改変や破壊までもやっていたらしい」
「そんなこともできるの?」
「無論だ――とは言っても、これはあくまでも俺の仮説なんだが、夢の世界っていうのは、死でも生でもない、そのほぼ中間の世界、つまり命の境界に下ろされた魂の結晶のようなものだ。その結晶は、いくらか生によってはいるが、死にも生にも明確に属していないがゆえにひどく無防備だ。だから『境の木』つまり『榊』を使って作った箱でその境界へ入ってしまえば、夢の中にも簡単に入ることができるわけだが――まあ、侵入の方法は置いておいて、そうやって無防備な魂の結晶の中に飛び込んでしまえば、そこから通じて、記憶の幹、つまりその人物を形成する土台にまで容易に手を伸ばすことができてしまうんだろう、と俺は思っている」
そう結んで、一通り説明し終えてみると、琴音は固まったようにしばし沈黙してから、
「……うん……まあ、よくは解らないけれど、要するにあなたは人の記憶をいじることができて、あなたの家は代々それを仕事にしてきたっていうことは解った……かな」
「ああ、それぐらい解ってもらえれば問題ない」
「それで……? それができることが、わたしの病気を治せることとどういう関係が……?」




