夢の中へ。
「蓮さん。これをお書きください。――昨日の分も」
いつもどおり静かな食卓で夕飯を食べ終えると同時、椿が唐突にそう切り出した。どうやら蓮が食卓へ来る前からその隣の空席に置いておいたらしい二枚の紙を蓮の前へ置き、冷淡な瞳で見据えてくる。
「もういいだろ、こんなのやらなくても……」
蓮が呆れると、椿は平坦な、しかし譲歩など許さないというような意志のこもった口調で、
「そのようなわけにはまいりません。この行動報告書を書くということも、あなたがあの家を離れるにあたって義務付けられたことなのです。それをお忘れですか」
「…………」
蓮は小さく嘆息しながら、椿がエプロンのポケットから抜いて差し出してきたボールペンを受け取る。そして、きのう分の『行動報告書』に渋々と記入を始める。
起床時刻、出発時刻、学校で受けた授業、帰宅時刻、帰宅してから就寝するまで何をしていたか、就寝時刻、そして一日の感想。面倒だが、もうおよそ半年近くやらされていることのため、難なく適当に書き進められる。
きのう一日の感想を『特になし』と埋めてようやく書き終え、その行動報告書を椿に提出すると、無言のままその目を報告書へと落とす椿を残して、蓮は今日ぶんの行動報告書を片手に席を立った。
その夜、再び『箱』に黒い水が満ちた。
また昨日のあの夢だろうか。蓮は思わず期待しながらその夢へと入り込んだ。すると、やはり昨日と同じ人物の夢だった。しかし、今日はさざなみの音も少女の歌声も聞こえず、少女が何やら蓮と楽しげに会話を交わしていた。
蓮は、その、今日の月はどのような形かということを話し合っていたらしい自分と少女との会話を切って、ひとり闇の中に座っていた自分へ同化、少女の夢へと侵入し、少女に尋ねた。
「……なあ、一つ訊いていいか?」
「え? うん、何?」
どこにもいないが、どこにでもいる。闇へと溶けてこの世界そのものとなっている少女は、砕けた楽な口調で問い返してきた。
「どうしてお前は二日も続けて俺の夢を――ああ……いや、違うな。どうして……そう、どうしてここは、俺以外は何もないんだ?」
「さあ、どうしてかしら。でも、こうしてあなたの姿を見るのは、わたしが久しぶりに人の姿を見たからだと思うわよ」
「久しぶりに人の姿を見た? どういう意味だ? お前、どこか山の中にでも住んでるのか?」
「いいえ、わたしが住んでいるのは病院よ」
「病院……?」
首を傾げて、しかし蓮はすぐに気付く。
「もしかして、お前、病院の売店の所で会った、あの車椅子の……」
「ええ、そうよ。あの時は助けてくれてありがとう」
少女は屈託なく礼を言うが、もしそうなら今のこの状況はおかしい。蓮は尋ねた。
「いや、でも待て。確かお前、目が見えないんじゃなかったか?」
「……? ええ、見えないわよ、全く」
「じゃあ、どうしてここに立っている俺があの時の人間だと確信できる? なぜ俺がこういう姿をしていることをなんの疑問もなく受け入れられる? この俺の姿を見て、お前は『そういう姿をしていたのか』っていうようなことを一度も口にしていないが」
「それは――だって、あなたと話していたらあなたの姿が現れたからじゃない。姿を見たことがなくても、あなたがその声で喋っていたら当然あなたがこの声の人なんだって思うでしょ?」
「それは、そうだが……」
なんとなく釈然としない。もう一歩踏み込んで尋ねてみようかと蓮が考えていると、逆に少女が尋ねてきた。
「ねえ、そんなことより、あなたの名前はなんて言うの? この前、訊こうと思ってたらすぐいなくなっちゃうんだもの。訊きそびれちゃって後悔していたのよ」
「そうか、それは悪かったな。俺の名前は呼倉――呼倉蓮だ」
呼倉、蓮……。と少女は、まるで心に憶えこませようとするようにそっと呟いて、
「そう……。解ったわ。あ、わたしはね、黒瀬琴音。だから、わたしのことは琴音って呼んで?」
「あ、ああ、解った」
少女――琴音の気さくさに蓮がやや困惑させられながら相槌を打つと、琴音はすぐに、
「あ、でもね、『姫』とか『琴音姫』とかでもいいわよ? こんなのでも、わらわはいちおう姫なのじゃからな」
「……? ああ、そうなのか。解った」
夢の中での妄想を否定することほど無意味なことはない。蓮はやや面食らわせられながらも微笑んで頷いてやった。
「あ、そうそう」
と、浮き立っているほど楽しげに琴音は喋り続ける。
「そういえば、蓮。あなた、さっきわたしに、『どうしてここは何もないんだ』って訊いたわよね?」
「ん? ああ、訊いたな」
「昔はね、光のある夢も見たのよ? でも、最近――っていうか、ここ数年は、ほとんどこういう夢しか見なくなったの」
「ここ数年?」
「うん。わたし、小さかった頃は歩けたし、目もちゃんと見えたから。今はなぜか両方ともできなくなっちゃったけどね」
「そう、なのか……」
ここが夢であるおかげだろう。普段なら赤の他人に話すことなどできるはずもない話を明るく話してしまう琴音に罪悪感のようなものを感じながら、蓮は返事をする。だが同時に感心する。目の見えない人は、音や感触、気配だけの夢を見るというが、やはりこれがその夢か、と。
そしてまた今さら納得する。琴音が人の姿を見てさほど驚かなかったのは、おそらく記憶はないが夢の中ではしばしば光のある夢も見ていたためだろう、と。
蓮は闇の中で腰を上げた。
「じゃあ、俺はこれで失礼させてもらうことにする。今日は勉強になった。ありがとう」
「え? もう行っちゃうの?」
「ああ、もうじき朝だからな」
「そう……。じゃあ、また明日も会いに来てくれる? あ、ううん。また明日も会いに来るのじゃ。これは姫の命令じゃぞ。解ったか、蓮よ」
そういえば、自分もこのように気楽に人と言葉を交わしたのは久しぶりのような気がする。蓮はつい表情を綻ばせながら頷いた。
「解った。まあ、それができるかはお前次第――」
言いかけて、思い付いた。
「そうだ。明日じゃなくて、今日、会いに行く。どこの病院にいるかは解ってるから、お前の病室の番号を教えてくれ。気になることもあるし、直接会って詳しく話が聞きたい」
小さな疑問は氷解したとは言え、『なぜか歩けなくなり、目が見えなくなった』という琴音の話が、まだどうも気にかかる。もしかしたら自分の出番かもしれない。そう思って蓮が言うと、琴音は、
「え? びょ、病室まで、あ、会いに来るの……?」
急に臆病な調子になって訊き返してきた。
蓮はその様子を怪訝に思いながらも、構わず再び尋ねる。
「ああ。きょう学校が終わったら会いに行く。だから、お前の病室の番号を教えてくれ」
「ば、番号……? ば、ばん、番号は、確か、な、『709』号室……」
「解った、『709』だな。――ああ、この夢から覚めたら、いちおうこの約束を忘れないように、『男が一人、今日の夕方に部屋に来る』っていうことを心の中でもいいから復唱しておいてくれ」
「え? あ、う、うん……」
「ちなみに、もう一度、訊いておく。お前の病室は『709』号室で絶対に間違いないんだな?」
「え? え、ええ、うん……『709』号室……」
「そうか。解った。じゃあ、また夕方にな」
と、蓮は闇の中の琴音に別れを告げて、なんとなくその声が聞こえてくるような気がするほうへ背を向け、
「え? ちょ、ちょっ――」
後ろから呼び止められるような声を聞きつつ、琴音の夢を出た。
目を開けると、部屋の中は既にカーテン越しの白い朝の光で満たされていた。カーテンの合間から差し込んできた光が枕元まで伸びてきていて、爽やかに眩しかった。




