鬱屈たる日常。
小説へ落としていた目をふと上げて、机のスタンドの明かりに薄く照らされる壁掛け時計を見ると、時刻は既に深夜の一時を回っていた。
かなり長い間ひたすら文字を追ってしまっていたせいだろう。目と頭に疲労を感じて、前髪を掻き上げるように手で額を押さえる。押さえつつその目を、机の上に置いてある一升枡ほどの大きさの漆塗りの黒い木箱へと移した。
その『箱』には、溢れてしまいそうなほどに水が湛えられている。
まるで墨のように黒々としながら光を反射して鏡のようになっているその水面には、今はどこか図書館らしき場所で本棚を見上げている自分の姿が映っていた。
蓮はその『箱』を持ち上げて傾け、中に溜まっていた水を適当に畳の上へ流し捨てた。だが、その水が畳を濡らすことはなかった。水は床へ向かって落ちながらも、さらさらと光の砂のようになって空中で消えていった。
――そろそろ寝るか……。
ほどよく疲労した頭でぼんやりとそう思い、その前にトイレに行っておこうかと腰を上げかけた時、再びゆるゆると『箱』に水が溜まり始めた。どこからともなく溢れてくる漆黒の水が、朱塗りになっている『箱』の中身をゆっくりと満たしていく。
そうしてやがて、『箱』になみなみと水が満ちた。しかし、
「ん……?」
その水には、先程とは違ってなんの光景も映し出されていなかった。
この『箱』は、呼倉家の土地の象徴であり、そしてこの現実世界と人の夢とを結ぶものであり、また呼倉の血を濃く持つ人間を夢の中に見た人の、その夢の光景を映すものである。
ゆえにこの箱に水が満ちた時、すなわち人の夢への通路が開いた時は、この水面に呼倉家の誰かの姿が映らなければおかしい。少なくとも、今まではこのような全く何も映らない、単なる墨のような水が満ちたことはなかった。
――声や音だけの、光のない夢……か?
『箱』を満たすこれまで見たことのない黒い水面に興味が湧いて、蓮はその夢へ入ってみることにした。
綺麗な夢だった。
海の穏やかな波の音と、少女の透き通った歌声。
それだけが柔らかく闇を満たす、とても綺麗で、とても優しい夢だった。
翌朝。
身支度をして、学校へ行く。
自分にとってはもう不要と決まったせいか、いやもしかするとそう決まる以前から、蓮は学校へ通うという行為に対してなんら楽しさも意義も見出すことができていなかった。
大して幸せにもなれるわけでもない将来のために受ける授業。仕切る者の自己満足のためにあるような数々のくだらない行事。そして何よりも、嫌気の差すほど閉鎖的な人間関係。
――一体こんな所で過ごすことのどこに有意義を見出せと言うんだ。
蓮は幼い頃から気付けば常にそう思いながら、笑顔の陰ではくだらない妬みや憎しみを抱えている他の生徒を横目に見て、現在――つまり高校二年までの年月を過ごしてきた。
学校など、つまらないという以前に、単にくだらなかった。
学校というのは刑務所と同じような場所なのだから面白いはずがないということは理解している。学校も刑務所も、やらせることは違えど双方ともその根本の目的は猿を人間化することである。その教育プログラムに個人の嗜好など全くと言っていいほど反映されないのだから、学ばされるほうはそれを退屈に感じて当然だ。
だが、『つまらない』と『くだらない』は全く別のことだ。既に猿ではなくなっているのに猿から進歩させるためのプログラムを受けさせられることは全く無意味なことで単なる時間の浪費だ。
まあ、だからこそ義務教育は中学までであって、自分は半分くらいは自分の意思でここにいるのだから、今のこの生活への文句を言う資格はないんだが――
などということを考えているうちに、一日は終わる。あさ学校へ来て、昼間は泥のように進むのが遅い時間に意味もなく耐え、やがて教室に夕日が差し始めると帰宅する。
あと一年以上もこんなくだらない生活を続けるのに堪えなければならないのかと思うと、とにかく気が滅入った。今日もいつも通りそんな気分で、蓮は学校を後にした。
――くだらない。




