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結晶の結界  作者: 茅原
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出会い。

 診療室のドアを出て、一階のロビーへと向かう。


 まるで閉鎖病棟のようにひと気のない薄暗い病棟の廊下に足音を響かせながら、蓮は小さく嘆息した。


原因が解らないと診断されるということなど初めから解っているにも拘わらず、こうして定期的に、まだ通院したことのない病院へ受診しに行かされることは、全く面倒以外の何ものでもない。確かに今日のこの通院のおかげで、これから数日は姉も大人しくなってくれるだろう。だが、この左手首から先が動かないという症状が、医学などではどうにもならないものであることを理解していながらも、『もしかしたら』と言って病院に行けとうるさいあの姉のことだ。またほんの数日たてば口やかましくなることは目に見えている。


大学病院は全滅、そして私立病院とは言えこのような大きな病院でも解らないと言われてしまったのだから、次くらいはいよいよ海外の病院にでも行かされるのだろうか。


 などとうんざりしながら階段を下りて一階へ着き、ロビーのある正面玄関のほうへ足を向けると、来院者やナースの姿がちらほらと見えるロビーへの途上に小さな売店が見えた。


売店の前では賑やかな会話が繰り広げられている。店員らしき中年女性と若いナースがカウンター越しに向かい合い、ナースが押しているらしい車椅子に座っている黒く長い髪をした少女の頭の上で、暗鬱な病院の景色の中に明るい笑い声を咲かせている。


 だが、その間にいる車いすの少女の顔に笑みはない。見た目では蓮と同い年かやや下ほどに見えるその黒髪の少女は、その薄氷で作られた芸術品のように儚げに美しい顔にどこか焦りの色を浮かべている。


そして、自分も会話に混ざりたいのか、水色の入院服を着た膝の上でほっそりとした手を固く握り締めながら、店員の女性を見上げては俯きを繰り返し、何か言いたげな様子で口を開けたり閉じたりしている。

 

蓮が、その光景をなんとなく眺めながら売店の前を通り過ぎようとしていると、話に区切りを付けたらしいナースが、まだ名残惜しそうに店員の女性と言葉を交わしつつ、少女の乗った車椅子を蓮が歩いてきた方向へと向けて押し始めた。


 え、とか細く声を上げて、少女は驚いた様子でナースを見上げた。すると、


「あっ……」


 少女が握りしめていた手から、一枚の百円玉がこぼれ落ちた。だが、その微かな金属音も少女の上げた小さな声も、雑談を名残れ惜しむ二人には届いていない。


やがてナースは何事もない様子で車椅子を押し始める。少女は慌てた様子で、


「あ、あ、あ、あの……」

「うん? どうしたの? 琴音ちゃん」


 ナースは車椅子を止めて少女に尋ねる。


「あ――い、いえ……な、なんでも……」


 上げていた顔を慌てた様子で俯けて、少女は消え入りそうな声でそう答えた。ナースは、そう、と怪訝そうな顔をしながらも再び車椅子を押し始めた。


その光景を見て、蓮は思わず眉間にしわを刻んだ。少女が落とした百円玉を拾って、


「ちょっと待ってください」


とナースを呼び止めた。そして、こちらを向いて立ち止まったナースの目の前を通り過ぎて少女の前へ立ち、その少女へ百円玉を差し出した。


「どうぞ」

「……?」


 少女はなんのことか解らないような――否、恐怖を感じているような妙な表情で蓮を見上げる。その丸く大きく瞠かれた澄んだ黒瞳が、まばたき一つせず蓮の顔を見つめる。


「ん……?」


 疑問の表情をしたいのはこっちだという気分で、蓮は差し出した百円玉に手を伸ばさないどころか視線を向けもしない少女と見つめ合う。が、しかし、


 あ――と、今さら理解する。


「ああ、悪い。ほら。これ、いま落としたぞ」


 蓮はそう言って少女の華奢な白い手を取り、その手の平に百円玉を置いた。それから体を起こして顔を上げ、ナースを見据えた。


「何をしてるんですか。ちゃんと見ていてあげてください」


 そう注意して、すみませんと慌てた様子で頭を下げたナースを横目に見ながら、その足を玄関へと向け直した。


 病院を出ると、既に街灯には灯が点り、空の東のほうは夜空になりかけの濃い藍色に染まり始めていた。


 一瞬、作り物かと驚いたほど精緻に整った少女の面立ちと、ガラスの一輪挿しのように儚げな雰囲気。そして、日本人形のように長い艶やかな黒髪。長い夜のとばりを下ろし始めた秋の寒空を見上げる蓮の目に、先程の少女の姿が、思わず困惑してしまうほど強く焼き付いていた。


「それで――きょう行かれた病院ではどのような診断を受けられたのですか」


 夕食を食べ終えて席を立とうとすると、姉――椿(つばき)が尋ねてきた。


「何も。これまでと同じだ」


 言いながら腰を上げ、食器を流しへと置く。すると、いつもどおりのどこか威圧的で冷然とした敬語で、椿が追って尋ねてきた。


「蓮さん。やはり、あのお仕事を辞めようとお考えになってはくださらないのでしょうか」

「……ああ、もう何度もそう言ってるだろ」


軽く苛立ちながら蓮が言うと、椿はその背を正しく伸ばした凛とした佇まいで数瞬、じっと蓮を見つめた。椿の容姿はまるでメイドである。紺色の長袖シャツと茶色の長いスカートに真っ白なエプロンを合わせた地味な服装と、清潔さを重視したように短めに保たれているショートカット、そして『呼倉家の長男だから』という理由で昔から自分に対して使われる敬語のせいで、まるで家に本物のメイドがいるような感覚を蓮は昔から抱かされている。


 椿は、その静謐さを決して失わない冷たい瞳で蓮を捕えたまま、


「それはそうですが、私はやはりあなたがあのような危険なお仕事をなさることに賛成しかねます」

「別に犯罪をしてるわけじゃないんだから、俺がどんな仕事をしようと勝手だって言ってるだろ。姉さんにとやかく言われることじゃない」

「いえ、しかし、何も学校へ通われながらそのような――」


 戸を閉め、蓮は椿との会話を断ち切った。


椿は、蓮がいつ何をするにしてもその口を挟んで渋り始める。何も文句を言わないのは勉強に関連することくらいだ。自分と同じく東京大学を卒業してくれることを期待しているのかどうなのか、ともかく何かにつけ束縛をかけてくる姉――椿という存在は蓮にとってはただひたすら鬱陶しかった。


 姉から離れることが目的で、高校入学を機に親に一人暮らしをしたいと申し出た。親はその申し出に渋面を作ったが、意外にも姉が後押しをしてくれたため結果的にはすんなりと許可をしてくれた。


だがその許可には、なぜか最も自分が離れたかった椿が、世話役、監視役としてともに暮らすことという条件がいつの間にか付けられていた。


 この学校の近所にある木造平屋の一戸建ては、本当なら自分が一人で悠々と使えるはずだったのだ。それなのに……。と蓮は嘆息しながら、ややともすると底が抜けそうな古びた木張りの廊下を歩いて自分の部屋へ戻り、静かに襖を閉めた。


 静寂の暗闇の中、窓から差す青い月の光が、静かに畳へと落ちている。


 ――また、あの少女の夢へ入ってみたい。


 ようやく戻ることができた一人の静けさに耳を澄ましていると、なぜか、きょう出会った車いすにの少女の姿を意味もなく瞼の裏に思い浮かべてしまっていた。

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