突然の、(4)
「……其れでも、私は構わない」
……だけど、私の考えていた以上に、月くんは強くて、優しい人だったらしい。静かにそう言いながら月くんが浮かべた表情は、イジワルなものでも、無理をして浮かべたものでもなくて、見ていてほっとするような穏やかな笑顔だったから。
「……ずっと由季に会いたかった」
髪を繰り返し撫でる彼の行動は、私がここにいることを確認しているようだった。瞳一杯に私を映し出しながら、彼の眼差しはどんどん優しさを帯びていく。
「由季の隣で、こうして共に過ごしたかった」
私に向けた言葉なのか、それとも独り言なのか。あまりにも柔和な表情で口にするから、判断することは難しい。
月くんは不意に手を止めると、眩しいものでも見るかのような眼差しをした。
「……あの日からずっと、それを望み続けていた」
遠くを眺めるのに似たそれは、もしかしたら過去へと想いを馳せたのかもしれない。どこか寂寥感を伴って響いた声に、そう思う。
「それが叶ったんだ……時間もある以上、焦る理由は何も無い」
再び私を視界の中心に入れて、穏やかに細められる瞳。頬を撫でる綺麗な白い手の、その手つきは酷く優しい。何かが蘇りそうで掴み切れない感覚に陥ってしまうのは、知らないはずのそれにどこか懐かしさを感じているからなんだろう。
……私の覚えてない過去でも、こうだったのかな。
そう自然と思える程に、彼は慣れた素振りだったし、私も違和感を覚えなかった。
彼の言動一つ一つを取ってみても、嫌悪感なんて微塵もない。
――だけど私にとっては初対面も同然で。
だからこそ、簡単には彼の言葉にも応えることは出来ずに私は俯いた。
「……どうか、そう悩まないでくれないか」
どこか苦笑交じりに告げてくる声に顔を上げれば、どこか気遣うような微笑が私に向けられている。その目に映る私の顔は、確かに誰が見ても情けないもので。
「私も今は返事を求めていない」
頬から頭に手が移動して、そのままゆっくりと撫でられる。幼い子供にするようなそれは、思えば記憶にある中でされる側として経験したことはない。そのはずなのに不思議とそうは思えないのは……やっぱりそういうことなのか。
「由季にとっては、まだ一日目だからな」
――『また知っていけば良いだけのことだ』。
そう、月くんが言ってくれていたのを思い出せば、すとんと力が抜けた気がした。
存外、私は緊張していたらしい。ようやく自分でもその考えに落ち着くことができたことへの安堵から、私はそっと目を伏せる。
まだ、答えが出せなくても良い。
――今は、まだ。
「……が、」
けれども月くんが更に言葉を続けたから、私は再び目蓋を上げる。
見上げた先にあったのは、無表情に近い真剣な顔。厳しいとまではいかなくても、さっきまでの穏やかな微笑とは決定的な差があるそれに、再び緊張が戻ってくる。真っ直ぐに見据えてくる月くんは僅かな笑みすら浮かべることなく唇を開く。
「由季こそ、恋人は居ないのか?」
「い……いないよ、もちろん……」
交流の幅が本当に狭い上に、男の子と関わることなんて高校じゃあほとんど皆無に近い私だ。恋人なんているわけがない。というより、いたとしたら月くんに対してもっと警戒してると思う。今朝のことを踏まえたら特に。
月くんの方も特に疑う必要もないと判断したんだろう、それに対して更に追求はなかったけれど、表情が変わることもなく。
「ならば、好いた相手はいるのか?」
「それも……ぜんぜん、いない、けど……」
真剣さの増した表情で見据えながらの問いかけに、思わず小さくなりながらも正直にそう答えれば、ようやく月くんは笑みを浮かべた。
幾度か目にした、余裕に満ちて……どこかイジワルにも見える顔。
「なら丁度良い」
楽しげに響いた言葉の意図が掴めず、尋ねようとしたけれど、それより先に身体を強く引き込まれる。
「わっ……!」
「――覚悟をしておけ」
驚きの声を上げながら収まったのは誰かの胸元。再び抱き締められたことに気付いて動揺するのと同時、顎先を掬う形で顔を軽く上向かされる。
交じり合う視線の先にあるのは、吸い込まれそうな深い赤。
鮮やかながらも酷く妖しげに光るそれを湛えた彼は、自信の強さを表すような余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「――私は、加減をする心算は無いからな」
「そっ……!」
そんなことをいきなり言われても……! というよりも加減って何だ、何をどう加減しないんだ。
次々と浮かんでくる疑問の数々に顔を上げても、目に映るのはただ唇にいじわるな弧を描いた月くんだけで。
「好いた相手も居ないのならば、後は好きになって貰うだけだろう?」
当然のように口にしつつ、彼は再び私の頬を包むようにして撫でると、ゆっくりと顔を近づけてくる。その後どうするつもりなのかがさすがに分かって、思わず両肩が跳ねた。
「待っ……!」
「嫌なら止める」
既の所で止まった彼から静かに告げられた言葉は、きっと真実だ。嫌なら止めてもらえる、と。そう理解していながら……それでも、どうしてなんだろう。
――不思議なくらい、抵抗する気にはならなくて。
動くどころか口を開くことすらしない私に、それを悟ったんだろう。月くんは数秒の間を置いてから、ふ、と小さく笑みを零した。
「……拒絶はしない、か」
呟かれた月くんの言葉に、口を閉ざしたまま俯く。何も言葉を返さないのは、この状況に酷く困惑しているからだ。それも月くんの言動に対してじゃない。それもないとは言わないけれど、何よりもまず戸惑ってるのは、私自身が全く嫌悪感を抱いていないことだった。流されているんだろうと言われてしまえばそれまでだけど、微塵も抵抗の意思が湧いてこない。それどころか、拒絶することに対して躊躇する自分さえいる程で。
ただただ黙りこくるしかない私を見抜いているのかいないのか、月くんは相変わらず余裕に満ちた顔で笑う。
「どうやら、望みが無い訳では無いらしい」
照れた様子もなくさらりとそんなことを呟いて、彼の顔が視界から外れる。彼へと掴まりながら強く目を瞑れば、由季、と耳元で呼ぶ声がして。
「愛してる。……ずっと、由季だけを」
脳へと直接言い聞かせているかのように甘やかに響くテノールが酷く気恥ずかしくて、掴まった指先に力を込める。じわりと顔に集中する熱に気付かないふりをしたいけれども、それは凄く難しかった。
そっと彼の肩口に額を当てて月くんから顔を隠した私に、月くんはくすりと笑ったらしい。
「――由季も早く、私を好きになれば良い」
吐息交じりに囁く声は優しくて、自然とその表情を見たくなった私が盗み見るようにちらりと視線を彼に向ければ、気付いたらしい彼もまた耳元から顔を離すと、真っ直ぐに私を見下ろした。
「これでも未だ冗談だと感じるならば、」
僅かに上がった口角は、絶対的な自信の証なんだろう。月くんは澄んだテノールで切り出すと、その双眸を僅かに細める。
「私が本気だと由季に自覚させるまで……ひたすら示し続けるだけだ」
揺らぐことない眼差しに思わず息を飲む。浮かべた表情、響く声音に、選ぶ言葉の端々にまで満ちた強さは、そのまま覚悟の表れなのか。躊躇いも不安もないそれは、とても綺麗なものに思えた。
同時に、それだけのものを向けて貰っているのに、何一つはっきりと返せない自分が申し訳なくなってくる。特に――告白、の答えに関して言えば、絶対にすぐには返せない。むしろ、良い返答が返せる自信もなくて……自然と視線を落としていけば、不意に頭へと手が乗せられた。
「焦らなくて良い。言っただろう? まだ由季には一日目だ」
幼い子供を安心させようとするかのように、柔らかさを伴った声音が穏やかに耳朶へ染み渡っていく。窺うように見上げる私に、月くんは穏やかに微笑した。
「私はずっと、隣で待つさ」
幾度か私の頭を撫でた指を、そのまま梳くような形で髪に通していく。伸ばした髪が指の間からするりと零れ落ちると同時、ふと気付いたように月くんは私の顎を捉えると、親指で私の唇をなぞった。
僅かに変わった表情は、正しく不敵と言えるもの。
「――私が奪うまで、誰にも触れさせるなよ?」
幾分低く告げる声は高校生とは思えない程どこか妖しく艶めいていて、その内容も相まって心臓が一際大きく跳ねた。受け答えなんて浮かぶ程の余裕は微塵もない私は、真っ赤な顔はそのままに月くんを突き飛ばすようにして押し退ける。予想外に無抵抗な月くんは簡単に離れてくれたから、急いで彼へと背を向けた。
「わ、たし……っ!」
何を言えばいい、どうすれば正解だ。自問自答してみるけれど、脳は完全に固まったまま正しく動いてはくれない。唯一良かったことと言えば月くんが私の行動を静かに待っていてくれたことぐらいだろう。ぐるぐると回る思考の末に、やっとの想いで唇を開く。
「……先……戻る、から……!」
「ああ、分かった」
激しい動悸も意識せずにはいられなくて、言葉が上手く出てこない。けれども月くんはそんな私に気にした様子を見せることなく頷いてくれたらしかったから、まごつきながらも立ち上がると、覚束ない足取りで必死に扉へと辿り着く。
「由季」
取っ手に手をかけたところで呼ばれた名前に、反射的に動きを止める。恐る恐る振り向いてみれば、月くんは意図的になのか偶然なのか、違う方向を向いていて。
「明日は何が良い?」
横顔に微笑を浮かべたまま問われたそれは、きっとお弁当のことだろう。わざわざそれを私に尋ねてくる理由は素直に考えれば一つだけで、私は視線を泳がせる。
「…………ピカタ、とか……」
「そうか」
浮かんできた料理名には理由なんてほとんどない。けれども私の返答に月くんはすんなりと頷くと、吹いてくる風に髪を遊ばせる。
「作って来る。……此れも、」
一度そこで言葉を区切ると、ようやくこちらに顔が向く。真っ直ぐな瞳と浮かんでいる表情は、余裕よりも優しさが濃く出ているもので。
「由季にしか、しない」
穏やかに言い切った彼の言葉を理解するのはそう難しいことじゃない。急くようにして速まる鼓動へ気付いた私は、彼から逃げるようにして扉を開けて飛び込むと、目の前の階段を駆け下りる。
火照った頬が煩わしくて、激しい動悸が気恥かしい。
嘘だと、夢だと。幾度も浮かんでくる言葉が、冷静になるように告げてくる。目の前に見えるかのような黄信号、きっとあれは冗談なんだと必死に言い聞かせる声は、果たしてどこから出てきた意見なんだろう。絶え間なく奥から生まれてくるそれは、期待の二文字をただただ拒絶し続ける。
夢じゃないかとすら思う。彼はあれだけトクベツな人で、比べて私は平凡で、お姫様なんて立場じゃない。ドラマのような言動だって私には酷く不釣り合いだし、明日になったら何事もなかったかのように意味がなくなるのかもしれない。それ程までに、あそこにいるべきは"私じゃない"。
きっとただの気まぐれだ。そう、何度も言い聞かせる。
私が必死に反応するから、だからきっと、平気な顔で、あんなこと――……
『……――由季のことが、好きだからだ』
遮るように、蘇ってきた言葉。それに動揺した私は、思わず誰もいない踊り場で立ち止まると、ふらりと壁に寄り掛かる。背中越しに伝わってくる冷たさも、今はほとんど意味がない。
「……ずるい、」
何だか泣きそうになりながら、いつの間にか毀れていたのは、私の本音。
彼は、ズルい。
……月くんは、いじわるだ。
だってきっと、今も涼しい表情を浮かべてる。丸で何もなかったみたいに平気な顔をしてるんだろう。
動揺してるのは、私だけ。
――頭の中が月くんのことばっかりなのは、きっと私の方だけだ。
こつりと頭を壁に当てながら、何とはなしに上を向く。
「なんで……」
何で私に、あんなことを言うんだろう。実際のところ、それが一番の疑問だった。
月くんは、トクベツな人。
彼だけじゃない。マッチも、朔ちゃんも、倉前くんも……浮かんでくる面々は、みんなみんなトクベツな人だ。誰しもが注目する何かを持ってる、認められている人達。
私なんかとは、違うのに――……
『由季も早く、私を好きになれば良い』
蘇ってくる笑顔、声――優しさ。一度触れたそれを思い出すたびに頬が熱を帯びていく。酷く魅力的で惹かれるそれには、悔しいくらい平静ではいられない。
私を好きだと言う人なんて……私を選ぶ人なんて。もう、二度と現れたりしない。そう、思ってたのに……
『愛してる。……ずっと、由季だけを』
繰り返し、繰り返し。
諭すように浮かんでくるのは、月くんの言葉だけだった。




