突然の、(3)
「……由季」
耳元で私の名前を呼んでから、安堵したように息を吐く。そっと頭に寄せられたのは柔らかさからして頬だろう。それが何となく分かってからも、身動ぎ一つできはしない。
動けなかった。記憶にある数年間、弟や女の子の友達に抱き付かれることこそあったけど、こんな風に包まれるかのような体勢になったことなんて一度たりともなかったから。
呼吸すら忘れて固まる私に、月くんは背中に回した手をゆっくりと上げると、そっと頭を撫でていく。
「…………由季、」
改めて呼ばれた私の名前は、呼びかけじゃなくて確認するかのようだった。肩口に引き寄せるように優しく押された頭に、私は自然と彼の胸元に顔を埋める形になる。そうしてしばらくの間を置いて、ぽんぽんと二度頭を叩くと、彼は僅かに身を引いた。
少しだけ空いた距離のせいで私の顔も彼から離れる。頭から離れた彼の手が再び私の頬へと添えられて、ゆっくりと上向かされていく。
交わる視線は、やっぱり赤。
「……やっと、会えた」
ほっとしたような声。どこまでも柔和に目を細める彼の優しい表情は一体何からくるものなのか。顔立ちだけが理由じゃない、凄く綺麗なその姿に、今それが私自身へと向けられている実感がない。全てが非現実的だった。彼も、この状況も、全てが丸で夢のようで。
ぼんやりとしている私の頬を数度指の腹で撫でると、不意にゆっくりと顔を私へ寄せる。近さを理解するより早く、右の頬へと、柔らかな感触が一度訪れた。
覚えはある、けれども何だったのかがすぐには思い当たらない。そうして離れていく月くんに……私は、ようやく自分に何が起きたのかを理解する。
また、キスされたんだ、と。
思い至れば、か、と一気に熱が蘇ってきた。
既に一度経験してるとは言っても簡単に慣れるようなものじゃない。むしろ冷静さを保つ為の"挨拶"っていう理由を否定されている今回の方が混乱の度合いは上だった。
動揺しながらもどうにか冷静になりたい私が反射的に月くんの胸を押せば、予想外にあっさりとその体は離れた。
……とはいっても依然として手は離れていないから、そう距離が開いたわけじゃあないけれど。その上視線は未だに私へとしっかり当てられていて、さっきと変わらない平静さを纏ってる。精一杯の想いで見上げている私とは正反対だ。
「なっ、なん…………!!」
「……由季は良く顔が赤くなるな」
可愛い。そう、微笑みを浮かべながら続けられて、私はそれ以上言葉が出てこなかった。嫌味な響きは丸でない。そう分かってはいるけれど、そのことと私が冷静でいられるかは全く別の問題だ。むしろ指摘された内容が図星なだけに余裕はなくなっていく一方で。未だに感覚の残る右頬を咄嗟に押さえながら、私は無意識にスカートを握った。
見上げた視界が一瞬歪んで見えたのは涙で滲んだからなんだろう。ここまで気恥ずかしさと混乱に陥ったことなんて、今までの人生で一度たりともなかったから。
「なんで……!」
どうして二度もこんなことをするんだろう。浮かんできたのは、そんな疑問ばかりだった。
からかわれてるのか、遊ばれてるのか。そんな人だとは思えないけど、じゃあ他に何があるんだと言われても何一つ思い当たらない。恥ずかしさと悔しさとで泣きそうな私の問いかけに、月くんは一瞬きょとんとした顔をした後で、ふわりと柔らかく目を細めた。
「……分からないか?」
毒気のない穏やかな物言いに、こっちの方が戸惑ってしまう。少しでもからかうような雰囲気があったなら迷わず抗議できたのに、と顔色を窺う為にじっと見つめ返していても、月くんの本心は見えてこない。どうにも自信が持てない中、返答を待っているらしい彼に、私は躊躇いながらも口を割る。
「…………からかってる、とか……」
「勿論、違うさ」
「じゃあ…………ただの、気紛れで……」
「其れも違う」
落ち着いた口調で、けれどもしっかりと告げられるのは否定だけ。月くんの目を見たところで、それが嘘だと思えるような雰囲気なんて少しも感じられないけれど、だったら正解は何なのかが丸で思い浮かばない。
――ただ一つ、ちらりと頭を掠めたものがあったけど、それは違うと一蹴した。そんなの、絶対に有り得ない。
「わかんないよ……!」
その一つの可能性を振り切りたい一心で勢い任せに言い放つ。余裕のなさが滲み出ていることに私自身ですら気付いたから、月くんは尚の事だっただろう。ただ彼が私と違うのは、一向に冷静さを失わないことだった。
私の反応を予想していたかのように彼の表情には気分を害した様子は丸でない。浮かべた微笑はそのままに、彼はただ時折赤みの混じるその双眸を私に少しだけ近付けた。
至近距離にある、真っ直ぐな瞳に、息を飲む。
そのまま動けずにいる私に対して、彼は少しだけ首を傾げた。
「……一番、単純な答えがあるだろう?」
分かっているはずだろう、と。言外に確認するような響をもって紡がれたそれに、どきりと心臓が大きく跳ねた。
――丸でさっきの私の考えを見透かしたようだ。そう、有り得もしないことを考えてしまうのは、それだけ彼の雰囲気が非現実的だからだろうか。けれどもはっきりとしていない以上、到底そうだとも言い切れない。
訪れた沈黙。明確な答えを待つ私に、月くんはそっと目を伏せた。
彼は何を言うのだろう。ただそれだけを思いながら、綺麗な顔を見つめ続ける。私と違って彼の中では既に明確な答えが出ていたんだろう。さして間を置かずにその唇が開かれるのが、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
「……好きだからだよ」
染み渡るように紡がれた声は、どこまでも静か。
なのに、どうしてなんだろう。
彼の口にする言葉だけは、丸で魔法にでもかかったように、耳について離れない。
「……――由季のことが、好きだからだ」
今度は、しっかりと目を開けて、私を見据えながらそう告げる。
告げられた内容をすぐに理解することはできなかった。ただ、穏やかながらもその強い目は、とても素敵だと思った。――好きだとも、思った。それでもまだ、彼に何を言われたのかを咀嚼するまでには至らない。ただただ魅入られたように月くんを見上げ続ける私に、ゆっくりと月くんは手を伸ばす。指先がそっと頬に当てられたのが、触れた温度で伝わってくる。優しいと漠然と感じるのは、それが大切にされてると感じる程に繊細な手付きだったからなんだろう。
「だから口付けるし、」
するりと滑る様に頬を撫でられ、熱が伝う。
「だから抱き締める」
肩まで下った指先は、流れるように背中の方へと移動して。
「……だから、私は此処に居る」
支えるように背中へと腕を回した彼は、熱を確かめるうかのようにこつりと額をくっつけた。当然間近に見える顔に、彼がどれだけ端整な顔立ちをしているのかを改めて見せ付けられる。瞼を縁取る長い睫に、灰色がかった薄青の瞳。荒れを知らない白い肌に、流れる銀糸は日の光を浴びて綺麗に輝いて見えた。
とくりと跳ねる心臓を止める術も持たないままで、私は文字通り目の前にある彼の顔を見続ける。再び頬が熱を持ち始めたことに気付いたけれど、月くんの浮かべた優美な笑顔に、そんなことはすぐに頭から四散した。
「こうして隣に居る為に、由季のいる日本に来たんだ」
目を伏せがちにしながら淡々と紡がれていく言葉は、喧騒とは遠いところで静かに響く。
「……愛しているから、戻って来た」
まるで異世界での出来事のように自分へのものとして感じないのは、彼の口にする内容が酷く縁遠いものだからなのか。良く出来た劇でも観ているような感覚に陥る私の前で、ゆっくりと開かれた目が私を見つめる。
すぐそこにある双眸は、灰色がかった薄青の目。
――その奥で、別の色が揺れた気がした。
「……それが答えでは、不満か?」
どこか悪戯っぽい笑顔を浮かべて出された台詞は尋ねてるようにも取れるけど、浮かんでいる表情は私の答えを確信してる。――戸惑いこそあるけれど、決して私が不満だなんて思っていないってことを。
けれども勿論、困惑しているのも本当だ。いくら嘘じゃあなさそうでも、簡単に「はいそうですか」なんて納得はできない。これがただの他人だったらまだ受け入れることができたのかもしれないけれど、相手は他でもない月くんだ。
だからこそ。
「……なんで……」
思わず私の唇から落ちた単語に、月くんは少しだけ首を傾げた。続きを穏やかな顔で続きを待ってくれる月くんは優しい人なんだろう。そう分かっていても、私は何故だか凄く泣きたい気分になった。
頭に廻るのは、唯一つ。
「なんで……私……?」
揺れる声をどうにか絞り出しながら尋ねたのは、どうしても腑に落ちなかったこと。
――そんな気持ちを向けられる相手が、どうして私かってことだけだ。
「月くんなら……」
もっと魅力に溢れてる子と付き合えるはずだ、と。そこまではっきりとは言わなかったけど、私は口を噤んで俯いた。
今までの経験で、自分の立ち位置はきちんと理解してるつもりだし、現実だって分かってる。私はおとぎ話に出てくるようなお姫様なんて程遠い、目立たなくて地味な子だっていうことも……反対に、皆から愛されるような子だって世界には存在することも。行動範囲が広くない私だって何人も知ってるくらいなんだ、きっと世界を探したらもっともっといるんだろう。それ位月くんだって分かってるはずだ。
なのにどうして、こんな私を選ぶのか。戸惑わない方がおかしい。
そのはずなのに。
「関係無いさ」
皆まで言わずとも私の内心を掬い取ったのか。月くんのはっきりと告げる声音に、私は再び顔を上げた。
返された迷いのない眼差しは穏やかだけれども真っ直ぐで、確信にも似た何かがその奥にある。
「他の誰にも興味は無い」
す、と指先で一筋毀れた私の髪を耳へとかけながら、彼は唇で弧を描く。
「私が恋い慕うのは、後にも先にも由季一人だ」
しっかりと断言してのけた月くんは、それでも納得しきれないでいる私に気付いたんだろう。ふわりと微笑を浮かべた顔には、やっぱり迷いなんてない。
「いずれ分かるさ。……分かるように、伝えるから」
額を離し、私の顔を覗き込みながら照れた様子もなく口にする。そんな彼を前にすれば、自然と浮かぶのは新たな疑問。
一体、何が彼にそこまで確信を持った言い方をさせるんだろう、と。
考えていけば可能性が高いのは、私の覚えていない過去のこと。
何かがきっとあったんだろう。そう思える程度には、彼の言動には自信が満ち溢れてる。それこそ、単なる母親同士が親しかっただけじゃない、もっと違う関係性が。
けれども、そう。
「……私……何にも…………」
「覚えていない」
月くんが補うように続けたことは真実で、私は再び口を噤んだ。
もしも記憶があったなら、私でもここで純粋に喜ぶことだってできたのかもしれない。けれども現実として私には五年より前の――彼のことを何一つとして覚えてない。いくら彼が想ってくれていたとしても、私には初対面同然で、嬉しさよりもまず先に戸惑いが生まれてくる。それは凄く失礼だし、酷いことだとも思う。それでも、それがどうしようもない事実だった。




