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白雪姫とヴァンパイア  作者: 澪川夜月
第一章 斯くて世界は廻り出す
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突然の、(2)

「……そういえば、」

「ん?」


 僅かに口角を上げた表情はそのままに、月くんは私に向き直る。その澄んだ双眸を見つめながら、私は少しだけ首を傾げた。


「月くんは、どうして日本に戻って来たの?」


 十一月という日本でも珍しい時期に、しかもフランスから帰国しての転入だ。外国の学校制度については詳しいことは知らないけれど、十一月から年度が変わるってことは多分ないと思う。カロルさんの説明を思い返してみても、帰国してきたのは月くん一人……お父さんはまだフランスにいるみたいだから、仕事から帰ってきたわけでもない。

 何か特別な理由があるのかな、なんて、軽い気持ちで尋ねてみれば、月くんは数度の瞬きをしたきり、すぐに口を開く様子はなくて。

 じっと私を見つめていた視線が、徐々に床へと落ちていく。次第に顔から微笑が消えていくその様に、何か悪いことを聞いたのかと思ったけれど。


「……raison、か」


 ぽつりと呟かれたのは、聞き慣れない異国の言葉。同時に伏せがちになった瞳の奥へと、普段の青とは対極に位置する色が僅かにちらついた。


 ――赤。


 普段のものとは全く異なるその色に、見間違いかと思ってよくよく確かめてみるけれど、再び向けられた真っ直ぐな視線に、それどころじゃあなくなった。しっかりと当てられたそれは、交わった瞬間から逸らすことを許さない。結果として見詰め合う形になった私に、月くんの目にはっきりと見て取れる自分の顔が、存外月くんとの距離が近いことを匂わせる。

 月くん、と。そう呼ぶつもりだったのに、不思議と喉から声は出てこない。相変わらず月くんから目を逸らせずにいる私は、彼の双眸の最奥でちらついて見えた深くて鮮やかな赤が気のせいじゃないことに気付く。

 魅入られる、感覚。例えば名前を呼ぶことができたとして、それじゃあ何と続けようとしたのかすら分からない。脳が麻痺したかのように何も考えられないまま、ただただ彼を見上げ続ける。薄く唇を開いたきり沈黙し続ける私に、月くんはここへきて再び表情を変えた。


 それは、見覚えのあるカオだった。

 僅かに上げられた口角に、少しだけ細められた強気な眼差し。綺麗で、そしてどこか不敵なものにも映る……イジワルな笑顔。


 どくりと、大きく鼓動が全身に響く。呼び起こされたのは他でもない、今朝の去り際のやり取りの記憶。

 ……誰からもされたことなんてない、頬へのキスの熱だった。


「……あ……」


 恐怖から来るものとはまた違う焦燥感。胸が詰まるような感覚に陥りながら、私は思わず斜めに自分の身を引いた。大して距離を取れなかったのは、それだけ混乱しているからなのか、それとも拒絶と受け取られるのが嫌だったからなのかは分からない。普通に考えれば前者だけど、相変らず強気な笑顔を浮かべたまま私を見下ろしている彼が、別段不快そうではないことに安堵している自分が確かにいる以上、後者の可能性も否めなかった。

 異様なまでに頬が熱い。きっと真っ赤になっているんだろうことが、余裕のない頭でも……或いは余裕がないからこそ、自分でもはっきりと理解できる。それに加えて、胸元から全身に響くかのように激しく跳ねる心臓が、余計に冷静さを奪っていく。

 息が詰まる、感覚。


「――……由季……」


 今となっては向かい合うような形になった月くんに、吐息混じりのテノールで名前を呼ばれると同時、僅かに宙へと浮いていた私の右手がそっと包まれる。それが何なのか目で見ての確認は出来ないけれど、伝わる温度と感覚で簡単に分かった。それが、月くんの掌であることは。

 月くんの傍らに残したままだった左手とは反対側のそれを握られて、もう距離を取る術なんて残ってない。余計に火照っていく頬と比例するかのように余裕を失う私とは丸で対照的に、月くんは笑みを更に濃いものへと変える。


「どうかしたのか……?」


 ぐっと近付けられた顔は、これ程の至近距離で見ても欠点一つ見当たらない。それどころか、逸らせずにいる最大の理由である目をはじめ、睫も肌も、容姿を形成する一つ一つの綺麗さが余計に際立っていることをはっきりと見せ付けられた。

 呼吸が出来ている気がしない。は、と短く漏れた息が彼の顔に当たっていることすら自覚できる程の距離に、平静でいる方が無理だ。

 身動ぎ一つ出来ない私。それを近くから見下ろす彼は、ゆるりとその双眸を細める。およそ高校生の男の子とは思えない程大人びたそれは、瞳の色と相まって、妖しい魅力すらあった。


「……顔が赤い」


 つ、と、空いている方の手が、伝うように私の頬を撫でていく。そうして沈黙したままの私を見つめ、彼はふ、と口角を上げた。


「真っ赤だな」


 言葉だけ取ればいじわるに思えただろうその呟きは、声に乗せれば嘲りの色は丸でない。もちろん、多少はからかう響きもあったけど、根底にはむしろ親愛にも似た何かが込められているようで、悪意の全くないそれに私はただただ困惑した。

 右手から伝わる温度は温かなものなのに、顔から伝わる指先が少しだけ冷たく思えるのは、それだけ頬に熱が集まっている証だろう。正しく、彼の言うように。

 けれどもそう、可愛くない反応だとは分かっていても、素直に認めるのは何だかとても悔しくて、その指から逃れるように私は顔ごと目を逸らす。


「だ……だって……!」

「ん……?」


 余裕を取り戻そうと必死に思考を巡らせる私にはお構いなしに、彼は私との距離を縮めた。月くんから顔を背けたのは失敗だったかもしれない。結果的に耳元にへと寄せられた彼の唇から紡ぎ出されてくる声は、直接鼓膜を震わせるかのように音が近かったから。

 動揺の余りに、取られていた手を思わず握ったのが当然月くんにも伝わったんだろう。ふ、と零れた彼の吐息はきっと笑みを浮かべたからで、同時に頬から離れた手が背中へとゆっくり回されたことに、どきりと心臓が大きく跳ねた。

 その全てを見透かしているかのように、月くんはく、と口角を上げる。


「一体、先程から如何どうしたんだ……?」

「あ、う……!」


 確かに私は何かを言おうとしていたはずなのに、香ってきた彼のものだろう薔薇の匂いが何だかとても気恥ずかしくて、結局思わず顔を俯かせた。もごもごと言い淀みながらも浮かんできたのはやっぱり今朝の一件だ。あればっかりは何も言わずに流しておくわけにはいかない。今後も関わっていくとしたら、尚更。


「っ……に、ほん、では!」


 顔を俯かせたまま、ぐっと唇を割り開く。じっとこっちを見つめている視線には何となく気付いているけれど、返す程の度胸はなくて。


「あいさつで、あんなこと、しないよ……!」


 必死の体で言い切った後、さっきまでとはまた違う理由で鼓動の音を耳にする。

 果たしてどう返されるのかが気になって仕方がない私に、こんなときだけしばらくの静寂が訪れる。強く目を瞑りながら反応を待つ私に、声がかけられたのは数秒後。



「知っているよ」



 耳にしてからしばらくは、何と言われたか分からなかった。少しの間を置いてようやく意味を飲み込んだ私は、即座に顔を上げて彼を見た。さっきよりは顔を離してくれていたらしい月くんは、僅かな距離を置いてじっと私を見つめてる。

 その表情は、今日一日で見てきたどんなものよりも穏やかさに満ちていて。


「知っていて、した」


 静かに紡がれた回答に、咄嗟に言葉が返せない。ただただ見上げ続ける私に、月くんは僅かに首を傾げた。


「私が知らないと思ったか?」


 少しだけ笑みを濃くしながら尋ねられた内容に、私は僅かに目を瞠る。口にしなくとも、その反応だけで答えが見て取れたんだろう。月くんは柔らかに微笑した。


「……どうやら、予想はしていたらしい」


 正しく、彼の言う通り。多少は予想していたんだ。月くんは単に外国から"来た"わけじゃあなくて、"戻って来た"――数年前までは日本で過ごしていたんだから、当然、文化も認識していたはずだって。

 でも、それじゃあ、どうして、と。その後を突き詰めて考えようとしていけば、妥当な理由は浮かばない。だからこそ、簡単に完結するその理由に逃げて、深く考えないようにしてたのに。完全にそれが否定された今、本当の答えを知りたいような、けれども聞いてはいけないような、複雑な想いが渦巻いた。


「其れにも関わらず、共に居てくれるという事は……」


 繋がれたままの手を撫でながら月くんは顔を近付ける。何度繰り返されても慣れない距離に胸を詰まらせていれば、彼は目元を和らげた。


「……私は、由季に嫌われてはいないと思っても?」

「そ……れは……」


 質問よりは確認の意味が強いだろう問いかけに、私は再び口篭る。返答自体を躊躇うと言うよりも、正しい答えが自分でも良く分からないのが本当だった。

 けれども多分、これが月くん以外の人だったなら、今朝の今で二人っきりになったりはしなかったと思う。むしろ近付くことすら躊躇ったはずだ。戸惑いとか困惑もそうだけど、どちらかと言えば、嫌悪感とか、そういった類の理由で警戒しただろうから。


 それがないどころか、月くんの隣に心地良さすら感じるのは、月くんが酷くトクベツな人だからなのか。或いは、記憶にない昔に会っているからなのか、それとも他に理由があるのか……今の私には分からない。


 はっきりと言えるのは、月くんのことは嫌いじゃあなくて。

 ――隣にいると、不思議と安心するってことだけだ。


 けれども、私にとっては初対面同然の月くんにそんなことを伝える度胸なんてない。いくら何でも恥ずかし過ぎる。結果として月くんから視線を逸らして答えかねている私に、月くんは酷く優しい眼差しを向けた。


「……私を、見てはくれないか」

「あ、う……」

「――……由季、」


 そっと名前を呼ばれながら、頬へと手が添えられる。強制の色が丸でないそれは、どこか寂しげにも聞こえた……なんて言ったら自意識過剰だと思われるかもしれないけれど、懇願にも似た響きが仄かに漂うそれに、促されるままに恐る恐る視線を戻す。


「……あ……、」


 目を向ければ自然と視界一杯を占める、眼前にあるどこまでも綺麗なその顔に、時間を忘れて息を飲む。苦しさを生むのは緊張にも酷似した何かで、繋がれたままの手をゆっくりと引かれれば、私は月くんと真正面から向き合わされた。頬から肩へ、そして背中へと下る手が、後ろへの逃げ道を塞ぐ。――とは言っても、逃げられる気なんてしなかったし、不思議なくらい逃げる気も起きなかったけど。


「……私が帰国した理由は、唯一つ……」


 整った唇から紡ぎ出される穏やかな音、その一つ一つが染み渡るように耳朶を打つ。いよいよ紡ぎだされる答えに、私は自然と全ての神経を彼に向けていた。

 彼は笑った。

 ――とても、とても、愛しげに。



「――由季に会う為だ」



 鼓膜を震わせる、心地よく響く優しいテノール。酷く大事そうに口にされたその内容に、私が目を見開いたと同時。

 ――私は、彼に抱き締められていた。

 一体何が起きたのか、最初は何も分からなかった。顔に触れる衣服の感覚、呼吸すれば香る薔薇の匂いと伝わってくる熱に対して酷く懐かしい気分になる。それこそ、無意識のうちに目を瞑ろうとする程に。

 けれどもそう、今私を包んでいる感覚的に全く覚えのないそれは一体何からくるものなのか、理解していけばそんな余裕そのものの行動には移れない。

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