突然の、(1)
日差しが心地良い中、私は膝の上に乗っているお弁当を見下ろした。色取り取りのおかず──それも嬉しいことに、私の大好物ばかりだ──が綺麗に敷き詰められたお弁当は、もちろん私が買ってきたものでも、ましてや持参したものでもない。
「気合いを入れ過ぎたな……」
ふ、と少しの後悔の混じった声で呟く月くんに、私は左隣の月くんを見上げた。
フェンスを背にして座る私達が手にしているのは同じ柄が描かれた器。けれどもそれが入れてあった袋は一つ。つまり私が食べているのは、月くんの持ってきたお弁当だった。
「最初は少なかったの?」
「ああ」
首を傾げながら尋ねれば、静かな首肯が返される。それに合わせてさらりと水のように流れた銀糸が、冬の日差しを浴びて綺麗に輝いた。普段中々目にしない色だし、月くんの容姿が人並み外れていることも相まって、それは酷く幻想的に映る。
漠然と、綺麗だと思った。
どこかぼんやりとした心地で私が彼を見つめる中、月くんは特にそれに気付いた様子もなく、ふ、と小さく息を吐く。
「由季と食べる心算だと私が口を滑らせてな……それなら由季にも作るべきだと母親に力説された。結果がこれだな」
そのときのことを思い出したのか、話す月くんの表情はどこか疲労にも似た色が見て取れる。けれども瞬きを数度繰り返した私の意識は、残念ながら別の部分へと向かう。
「じゃあ……これ、私に……?」
「ああ」
てっきり月くんが作り過ぎただけなのかと思ってたけど、よくよく考えてみたら二人で食べても余る程の量なんていくら何でも多過ぎる。けれどもそう、まさか最初から私の分だったなんて…………というか、月くんは最初から私と食べるつもりだったのか。そっちにもちょっとびっくりだけど、何よりもまずは、数年振りになるんだろう、誰かが"私に"作ってくれたお弁当だっていう事実が、何だか上手く飲み込めない。
自分の持っている、お重にも似たお弁当箱をまじまじと見下ろしていれば、月くんが微かに笑ったのが空気で伝わってきた。
反射的にそっちを見れば、月くんの顔に浮かんでいるのは仄かな苦笑。
「済まないな……昔から、何時も強引な母親で」
「え……ううん、そんなことないよ!」
思ってもいない謝罪――それも何だか誤解が含まれていそうなそれに、慌てて否定を入れた私の声は、考えていたよりも随分大きなものになってしまった。
それは月くんにとっても意外、というよりも、面食らったと表現した方が正しいのかもしれない。きょとんとした顔をする彼に若干気まずいものを感じて、思わず少しだけ縮こまる。
「あ……えと……その、カロルさんには、本当に、ずっとお世話になってるし……」
月くんの顔をしっかりと見ることができずに視線をうろうろと彷徨わせつつ、必死に適切な言葉を探す。
思えば本当に親しい人以外との一対一での会話は久々な上に、やっぱり一心に言葉を待ってくれてることもあって、慣れない雰囲気にどうしてもぎこちなくなるけれど。
「いつも気にかけてくれて、服とかも作ってくれて……私はほんとに嬉しいから、だから、」
思い返していけば次々と浮かんでくる、カロルさんから貰った気持ち。昔から変わらず受けているそれに、自然と頬も緩んでくる。
「……こっちこそ、ありがとうございます、だよ」
お世辞を抜いた、本心からの言葉を紡ぐ。……けれどもそう、訪れた静寂に、私ははっと我に返った。
私の言ったことはあくまでカロルさんに対してのものであって、月くんに向けて言うべきことじゃない。対象である月くんが沈黙していることも相まって、私は慌てて顔を上げる。
「……って、月くんに言っても困るよね! ごめ……」
ごめんと、紡がれるはずだった謝罪の言葉は、唇に当てられた指先によって止められた。反射的に口を噤んで見上げれば、月くんもまた穏やかに細めた瞳で私のことを見下ろしていて。
「……Merci.」
僅かに口角を上げながら紡がれるのは、流暢な異国の単語。その指が私の唇から離れても、不思議と私の視線は月くんから逸らせない。優しい微笑に酷く落ち着いた気持ちになるのは、一体何故なんだろう。そんな疑問が、不意に頭を過ぎったけれど。
「母も喜んでいるだろう」
彼の言葉が社交辞令だったとしても嬉しくて、浮かんだ問いはいとも容易く消えていく。思わず私も笑顔を浮かべれば、月くんは何か眩しいものを見るかのようにゆるりとその双眸を細めた。
「……変わらないな……」
ぽつり。
囁くようなテノールは、ともすれば空気に溶けていきそうな程小さくて。
「…………良かった」
続けて満足そうに呟かれた短い単語の意味は私には掴み切れなくて、僅かに首を傾げたけれど、深く追求するようなことでもなさそうだ。
結局尋ねることをしない私に、「しかし……」と、ここへきて初めて月くんは僅かに眉根を寄せる。それはまるで、目の前の私を案じているかのようで。そのまま自然な動作で伸ばされた手に、私はどきりと動きを止めた。幸い不自然な程硬くなったわけじゃあなかったからだろう、月くんはそのまま私の前髪をそっと上げると、顔の距離を近付ける。
「少々顔色が良くないが……食事を控えているのか?」
「あ……」
思わず漏れた声は、不意に突きつけられた事実に少なからず動揺したからだ。
少し前にカロルさんにも同じことを聞かれたから、もしかしたら私の顔色は本当に良くないのかもしれない。けれども真実を伝えることもできなくて、私は月くんの真っ直ぐな目から逃げるように視線を逸らす。
「え……と……うん、ちょっと、最近、食べないようにしてて……」
「…………そうか」
誤魔化し切れた自信があるかといえば否だ。はっきりとは言えないけれど、月くんはそういうことに鋭そうな印象があった。けれどもカロルさんに対して返した回答と違うことを言えるはずもなく、結局のところ今の私にできるのは、同じ内容を伝えるだけ。
幸い月くんがそれ以上追求してくることはなく……何となく、本当の意味では納得してないだろうってことは予想できたけど、今日のところは言及する気はないみたいだ。ふ、と表情を崩すと、月くんはゆっくりと手を離す。同時になくなっていく掌の温度に、彼の手は思いの外温かいことを少し遅れて理解した。
「私からすれば、別段気にする必要は無いように見えるんだがな」
「そう……かな……?」
「ああ。だから、無理に食べろとまでは言わないが……」
言葉と共に差し出されたのは、別の段に詰められたおかずの数々。色鮮やかなそれは見ているだけで美味しいだろうことが伝わってきて、私はじっとそれを眺めた後、隣に座る月くんを見上げた。
私のことを見下ろしていたんだろう彼とは当然視線が交わって、月くんは柔らかな笑みを浮かべてくれる。
「好きなだけ食べてくれ」
「……ありがとう」
勧められるままに私が取ったのは、大好物の一つであるコロッケだ。一口齧れば、その中でも私の大好きなクリームコロッケの味がすぐに広がった。
「美味しいっ!」
「なら良かった」
私の感想に薄く笑って、彼もまたおかずを口にする。別に凝視しているわけではないけれど、綺麗な箸使いからは日本での生活の経験を超えて、月くんの育ちの良さすら伝わってくるような気がした。一言で言えば大人びているその姿を目にすれば、自分の幼い反応が何となく気恥ずかしくなってくる。けれどもそう、こんな美味しいお弁当は今後食べれるかどうかすら怪しいんだ。今だけは気にせず味わいたい。と、私は鮮やかな色をした卵焼きを口にした。途端に口元が緩むのは最早条件反射に近い。うん、美味しい!
「口に合うか?」
「うん、とっても!」
「……どうやら、味の好みも、好物も変わっていないらしいな」
思わず普段よりも弾んだ声で返した私に、彼は目元を和らげながらぽつりと静かに言葉を零す。安堵したように小さく紡がれたそれは、多分独り言だったんだろう。「変化していたらと少々心配していたが……」そうぽつりと続けると、彼は満足そうな表情を浮かべた。
「喜んで貰えたのなら、良かった」
「あ……」
その言葉に、一度、どきりと胸が高鳴った。
――けれども同時に、酷い罪悪感が湧き上がってくる。
最初お弁当の中身を見たときに、大好物ばっかりだなあと思ったけれど、それは決して偶然じゃあなかったんだ。味付けが凄く好みだったことだってそう、全部考慮されていたからこそだったんだろう。最後に月くんと私が会ったのは少なくとも五年以上前のはず。それでもこうして配慮することが出来る位、月くんはちゃんと覚えてくれてるのに。
なのに、私は――……
「……ごめんなさい」
「ん?」
「何がだ?」と首を傾げる月くんは不思議そうにしながらも優しく笑っていて、罪悪感からなんだろう、見続けることができなくて、私は思わず俯いた。
「…………私、」
一言ぽつりと落としたきり、言葉が上手く出てこない。
謝罪したところで何かが改善されるわけではないけれど、それでも。
「……なんにも、覚えて、なくて……」
朝からずっと隣で過ごしてはいるけれど、一向に月くんのことを思い出す気配はない。強いて言うなら、初対面の人に対する緊張感があんまりないこと位だろう。それだって、月くんの雰囲気がそうさせるだけで、どこかで覚えているからだとは言い切れない。
月くんと自分のあまりの差に落ち込むどころの話じゃなくて、気持ちに比例してどんどんと項垂れていく。忘れたくてそうなったわけじゃあない……はずだけど、それでも結果的には変わらないから。だめだなあ、なんて、自己嫌悪に沈んでいくのが止まらない。溜め息を吐きかけた私は、不意にそっと額に触れる何かに気が付いた。
反射的に顔を上げて見れば、それは月くんの指先で。
俯いたときに流れたんだろう、私の少し長く伸ばし気味な前髪をそっと除けながら、月くんはとても綺麗な微笑を浮かべた。
「構わないさ」
柔らかに細められた眼差しはどこか眩しいものでも見ているようで、けれどもその灰色がかった薄青の目には今私の顔しか映ってない。真っ直ぐなそれに私も思わずじっと見つめ返していれば、月くんは笑みを湛えたまま、僅かにその首を傾げた。
「また知っていけば良いだけのことだ……そうだろう?」
静寂の中で静かに響く月くんの声。穏やかなそれはどこまでも落ち着いていて、聞いているだけで凄くほっとする。
その言葉で、声音で、双眸で、表情で。全てで伝えてくれるのは、気遣いからきた建前上の単語じゃない、本心からだと思える"大丈夫"の一言だ。酷く沈んでいた私は、その言葉を飲み込むまでに少し時間がかかったけれど、内容を理解した頃には自然と笑みが零れていた。
「……ありがとう」
酷く大人びた人だ。彼の優しさに満ちた表情に、穏やかな言葉に、落ち着いた空気に、自然とそう感じさせられる。当然のように唇から毀れた感謝の言葉に、月くんはふ、と目元を和らげた。
何が、とははっきりしないけれども、許されているみたいだ、と、感じる。
安堵にも似た心地の中、私は完全に空になったお弁当箱を膝に置いて、ぱちりと両手を合わせて笑う。
「ご馳走様でした!」
「口に合ったか?」
「ふふ……うん、とっても!」
「そうか」
「それは何よりだ」と微笑する彼は、私から受け取ったお弁当箱をナフキンで綺麗に包み込むと、鞄の中に丁寧に仕舞い込んだ。その動作には同年代の男子に多く見られる、どこかしら大雑把な印象は丸でない。神経質なのともまた違う、何気ない仕草の一つ一つが上品で、洗練されてると表現しても決して大袈裟じゃあないだろう。屋上という場所なのにも関わらず、私の目に映る彼は酷く非現実的だ。
どこかぼんやりとしながら彼を見つめていれば、不意に数日前浮かんだ疑問が再び頭を擡げてきた。




