優しい彼(1)
月曜日の、それも一時間目の授業といえば、大抵の人は多少の差こそあれどまだ頭が覚醒しきっていないことがほとんどだ。重要科目の英語だから寝てる人こそ少ないけれど、集中できてない人だって少なからずいるはずなのに。
「…The woodsmoke and the moon made me restless…」
まるでお手本のCDのように流暢な発音が静まり返った教室に響く。
一番後ろの席に座っている私が前を向いているんだから、普通なら先生以外の顔は決して見えないはず。にも関わらず、今は私がどの方向を見ても顔の見えない人がいないのは、全員が後ろに……窓際の最後尾である月くんに注目しているからだ。
「…Of course, I would have gone if I had been able to get away first.…」
澄んだテノールで苦もなく読み上げていく月くん。そんな彼を、何人かは呆気にとられたような表情で、また何人かは嫉妬が滲む双眸で、何人かは焦りが見て取れる顔で、そして残りの大多数がうっとりとした様子で彼のことを見つめてる。
この状態だけを見たなら大袈裟だと言う人もいるかもしれない。けれどもそう、月くんの読み上げる声をほんの少しでも聞いたなら、決して過剰な反応じゃないっていうことが分かるだろう。
まるで音楽。そう思えるほど、聞こえてくる声音はどこまでも心地良い。
きっと先生にとっても予想外だったんだろう。普段なら途中で入るはずの制止の声もないままに、月くんが全て読み終えてから十数秒が経過しても、誰も反応できないままにただただ時間が流れてく。
「……終わりました」
誰しもが沈黙している中、一人冷静に報告した月くんに、ようやく先生も我に返った。
特に不機嫌になることもなく、かといって柔らかな表情を浮かべるわけでもなく。ただ真っ直ぐにその灰色がかった薄青の目で先生を見据えている月くんを、先生もまたまじまじと見つめる。その目付きが、どこか疑うような、信じ難いものに対するものなのは、あまりのことに言葉が見付からないからなんだろう。
「ああ……ええと、赤城くんは、フランスから来たんだったかな?」
「はい」
「そう、か……英語圏じゃないのか……」
躊躇いがちな先生の声には勢いが全くないけれど、そうなる気持ちは良く分かる。漠然とだけれど、月くんのそれは英語を母国語としている人の――長年その土地で生きてきた人のものに思えたから。数年の勉強や留学じゃない、イギリスやアメリカのような英語圏にずっと住んでいましたって言われたらすんなり納得できるだろう。それくらい、月くんの英語は他の言語の影響を少しも滲ませない。
「すっごーい!」
「ネイティブみたーい……!」
「アホかよお前ら」
「外国人なんだから当然だろー」
口々に負け惜しみだろうセリフを紡いでいく男の子達に、思わず苦笑が零れ出た。
月くんは完全な外国人じゃなくてハーフだし、今までいたのはフランスなんだから英語圏ではなかったはず。だから、"外国人だから当然"っていうのは間違いだ。
でもまあ……と、私は改めてクラス全体に視線を向ける。
完全に夢中になってるらしい、どこか恍惚とした表情まで浮かべてる女の子達の様子を見れば、男の子達が面白くないのも理解はできる。ただ、言葉の端々に嫉妬の色を滲ませる彼らが連ねてく言葉の数々は、肝心の女の子達には一切届いてないみたいだけど。
ふ、と息を吐いてからそっと視線を左の方に動かせば、当然のように月くんの顔が視界一杯に飛び込んできた。
転入初日だから間に合わなかったらしく、月くんはまだ教科書を持っていない。隣の私のものを一緒に使っていることもあって、距離の凄く近い月くんの横顔もはっきりと見える。周囲の声にもほとんど表情が変わらない……それどころかほんの少しだけ無関心にも見える表情は、きっとその内容にも興味が湧かないからなんだろう。何を映すわけでもなくただ前方に向けられていたその瞳は、決して揺らぐことがなく。
そんな冷静過ぎる反応でも様になっているというか……自然と魅入るそれは、まるで何かの力を持っているかのようで。
さすがにこの至近距離から見ていれば視線も感じるんだろう、ふと気付いたようにして月くんがゆっくりとこっちを見る。
そうして私へと向けられたのは、長い睫に縁取られている灰色がかった薄青の瞳。カロルさんと同色のはずのそれは、月くんの纏う雰囲気のせいなんだろうか、少しだけ冴えた印象を増しているようにも見えるけど。
「……ん?」
小さく首を傾げる月くんの顔に、さらり、透き通るような銀糸が肩から一筋零れた。不思議そうな呟きとは少し違う、口角をほんの少しだけ上げて笑うその表情は、酷く綺麗で、優しい。それをまともに、しかもこんなに近くで見たせいで、さっきまでの冷静な思考は跳ねた心臓で完全にどこかへ吹き飛んだ。
頬が、熱い。多分、赤味は絶対に増してるだろう。
けれどもそれに気付いているのかいないのか、月くんは更に首を傾けて。
「どうかしたか?」
特別気分を害した様子もない月くんからの質問の声で、ようやく私は我に返った。
「え……あ、いやあの、」
とっさに答えが出てこなくて、私は視線を泳がせる。まさか「月くんの顔に見惚れてました」なんて言えるはずがない。恥ずかし過ぎる。思わず顔ごと逸らして、月くんの姿は視界の端に辛うじて留めるのみにした。正面から答えないのは失礼かもしれない、なんて考えはちゃんと浮かんではきたけれど、正直そんな余裕はなくて。
「……発音、綺麗だなって、」
思って、と。やっとの思いでそれだけ小さく返してから、月くんの表情を控えめに窺う。
最初のきっかけにして差しさわりのない返答をしたつもりだったにも関わらず、月くんは一瞬きょとんとした顔で私のことを見つめ返した。自覚がなかった、ってことなのかな。その表情は普段は見せない幼さのようなものをほんの少しだけ滲ませていたけれど、それはすぐに柔らかな微笑へと変わる。
「Merci.」
流暢としか言いようがない、上品に響くフランス語。どこか嬉しげにも映る笑顔はやっぱり綺麗で、どきりと心臓が跳ねたけど。
――それと同時に、聞き覚えのあるその単語に、今朝の一件も思い出されて。
「……ど、う、いたしまして……」
やっとの思いでそれだけ返す私の耳は、女の子達の黄色い悲鳴をしばらく拾い続けてた。
* * * * *
……今朝質問したとはいえ、数学はやっぱり大の苦手だ。前回の復習はちゃんとしたし、予習もしておいたから簡単な問題ではそこまで大きくは躓かない。けれどもそれはあくまで簡単な問題の話であって、今目の前の問題集に掲載されてる、大学入試用の難問には適用されることはなかった。
幸いなことに躓いたのは私だけじゃないのか、教室内からは音がほとんど聞こえない。つまりそれは、大半の生徒の筆が止まってるってこと。
「まだ解けてない人いるかー?」
問題を板書し終えた先生が生徒側に向き直った瞬間、顔を上げた子達が連鎖するようにぐったりと姿勢を崩していく。
「解けてないでーす!」
「つーかそんなヤツいませーん」
「早いよ先生ー」
「むしろこの問題自体無理ー」
「こら! ウチの大学入試はこのレベルの問題ばっかだぞー?」
口々に反論していく生徒に対して、先生は軽く窘めるように注意する。まあ先生の言うことも尤もだ。一応、この高校が附属になってる私立大学は全国でも指折りの名門校。入試問題だってトップレベルの難問が出題されるはずだ。例えばそう、今解いているような、問題集でも最高ランクに位置付けされるような問題が。
だけど、それはあくまで大学受験。それも私立校だから、必要になるのは理系志望の人達だけの話であって。
「それ理系でしょ? あたし文系志望だしー」
「オレら附属だから関係ないしなー」
「よーし。じゃあ誰か出て来て答えて貰うかな!」
「無視かよ先生!」
「私無理だから当てないでー!」
当然出てくる反論内容も流す形で先生が教室中を見回せば、途端に上がる悲鳴交じりな言葉達。私も特に口に出すことはしないけど、目が合ったら大変だと思わず視線をノートに落とす。
と。
「先生ー!」
ばっと挙手をした一人の男の子に、一気に視線が集まった。教室のほぼ中央に座っている彼が立候補したのかときっと誰もが思ったけれど、続けられたのはそうじゃない。
「転入生の赤城くんに答えて貰うのが一番良いと思いまーす!」
「……赤城?」
いきなりの指名に先生が不思議そうにしている中、周囲の女の子達が彼のことを一斉に睨み付けた。
「ちょっと、いきなり何言ってんのよ!」
「転入早々嫌がらせ?」
「やることサイッテー」
「うるせーよ。実力分かっといた方が良いだろ?」
女子からの意見にもどこ吹く風で全く悪びれた様子のない彼に、女の子達は不満そうにしているけれど、肝心の月くんはと言えば何の反応も示してない。こっそりと覗き見た横顔には今のやり取りにも興味は全くなさそうで、ただ無関心な視線を黒板に向け続けているだけ。
中心で微妙な雰囲気が漂う中、先生はそれを注意することなく、真っ直ぐに視線を月くんに向け……どうしてだろう、楽しげに笑った。
「赤城、いけるか?」
その声には、どことなくだけど、信頼のようなものがある。まるで、月くんの実力を既に把握しているかのような……それでいて、それを目の前で確認することへの楽しみが含まれているような、そんな響きが。
対する月くんはと言えば、指名されたことにも決して動揺することはなく、一度黒板を確認してから、再び先生に目を移した。
「もう書いても?」
「ああ、もちろん」
教室中がざわめいたのは、きっと月くんが解答できる状態にあるんだと誰もが理解できたから。その上板書するために席を立った月くんは、自分のノートすら手にしてない。そのまま何を見ることもなく子気味良い音を立てながらすらすらとチョークで書き綴っていく。その文字は見本のように整っていて、それでいて模範解答のように理路整然としてる。
それを横から眺めている先生も、やっぱり楽しげに笑っていて。
「書けたら説明も頼む」
「……分かりました」
新たに加えられた指示にも一つ頷き、月くんはチョークを白から黄色に持ち替える。
「……まずは外接円の半径をR、内接円の半径をrとおいた上で、余弦定理よりcosA=1/2であり……」
凛と響くその声以外に室内からは音がしない。時折書き加えられるアンダーラインを引く音だけが高く鳴る中、的確な説明はどれ程皆の頭に入っていたんだろう。少なくとも、私は何処か呆然とした気持ちで、説明する月くんの姿を見つめるのが精一杯だったけど。
「以上の結果から、内接円の半径rは√3です」
かつり、チョークを置く音が耳朶を打った瞬間、先生は満足そうに首肯しながら手を叩く。
「正解だ! よく解けたな、赤城!!」
「すっごーい……!」
「これ超難問なのにー!!」
「た……たまたまだろ、たまたま!」
「梓もできたろ? な!?」
「あ……あぁ、まぁ……」
惜しみない称賛を送る先生の声に交じって、歓声と反論が交互に上がる。その中に混ざっている倉前くんの声にはいつものような余裕がない。多分、焦っているんだろう。或いは本当は解けてなかったのかもしれないけど、そこまではさすがに分からないし、当然追求する気もない。
言えることは唯一つ。
少なくとも、数学に関しては月くんはトップレベルの実力を持っているってことだけだ。
「噂には聞いてたが、さすがだな!」
「どうも」
とびきりの賛辞にも月くんはさして表情を変えることもなく、軽く会釈だけ返して自分の席へと戻り始める。その反応のなさがまた、月くんにとっては大したことじゃなかったことを象徴しているようで、私は書き写した月くんの模範解答を眺めて溜め息を吐いた。理系に進もうと思っているわけではないけれど、やっぱり凄い人は凄い。私の努力もまだ足りないな、ともう一度だけ息を吐けば。
≪――――……≫
「…………ん?」
不意に耳朶を打つ、耳鳴りのように高い音。それが耳鳴りじゃないのは左側から、つまり窓側から聞こえてきたから理解できた。
反射的にそっちを見れば、視界を掠めたのは黒いモノ。一秒と持たずに視界から消えたそれは影のように形が判然としなかったらから、何だったのか、もしかしたら見間違いの可能性すら否めない。
「どうかしたのか?」
丁度席に戻ってきた月くんは当然私の反応が目に入ったんだろう、首を傾げて尋ねてくる瞳に、私は少しだけ返答に迷う。
「えっと……窓の外に、何かいる気がしたんだけど……」
確認の為に外へと視線を向けてはみたけれど、もうあの影は見当たらない。一番可能性があるのは鴉かな、でも影すらないわけだし……
「虫か何かかな……」
適当に予想したところで答えが出せるわけでもない。ぽつりと呟いた私は、ふと月くんの顔を見上げた。彼は、何故かじっと窓の外を真っ直ぐに見据えてる。少し細められているその双眸は、ともすれば睨んでいるかのようにも見えて。
もしかしたら見間違いかもしれないことを思うと、その反応が何となく後ろめたい。
「あ……勘違いだったかもだから……気にしないで」
咄嗟にそう付け加えれば、月くんは未だに窓の外へと視線だけは残しながら、それでも前方へと向き直る。
「……そうなら良いんだが……」
呟くように返した後、ようやく瞳も前へと向けられたのを確認して、私は内心で安堵した。月くんの方が私よりも窓に近いわけだから、私以上に気になるだろう。それは凄く申し訳ない。
でも、それにしても。と、私も黒板に視線を戻しながら考える。
さっきのは確実に何かが見えたと思うんだけれども、音もしなければ正体すら分からない。一体何だったんだろう、それとも見間違いかなぁ……なんて、ぼんやりと考えている私は、もう一度だけ窓側を見る。
その一瞬、月くんの目もまた窓の外へと向けられていて。
細められていた双眸は、警戒の色を帯びている。
そんな気がした。




