転入生(3)
未だ私の耳に次から次へと飛び込み続ける女の子達の会話から、改めてユエくんの凄さを思い知る。……そう、きちんと認識したはずなのに、そんなことを思い出すのは、まるで期待でもしているみたいだ。明らかに立場に差がありすぎるのに、勘違いにも程があると言うべきか。その上さっきの今で会ったばかりの相手なのに、何を考えているんだと自分で自分をたしなめる。
そうして、呆れのようなものを含んだ息を小さく吐いた後、ほんの僅かだけ上げた顔で、ちらりとユエくんを盗み見た。
……素敵な人だなぁとは、思う。けど、いくら何でもまだそんな深い感情はない。そのはずだ。だって私がユエくんについて知ってることは本当に一握りの情報だけで、それもちゃんと関わった上で把握しているものじゃない。知り合いとは言ったけど、実際はほとんど赤の他人だ。カッコ良いとは思うけど、元々そこまで外見に拘りのようなものはないし、一目惚れをするようなことはない……と思う。
第一、私は――……
「ほらほら、皆静かにー」
低くも穏やかな先生の声に、一気に教室内が静まり返った。けれどもそれは決して落ち着きを取り戻したからじゃないことは、どこかそわそわとした様子で前方に意識を向けてる皆の様子ですぐ分かる。
教室にいる誰もがユエくんを注視してる中、その中心にいる彼だけが落ち着き払った様子で立っていて。
「新しくこのクラスの一員になる、赤城月くんです」
男性にしては柔らかな印象のある文字で先生が丁寧に板書する。その一画一画すら皆の注目を浴びているのに、当の本人であるユエくんは興味なさげに視線を下の方へと落としたままだ。緊張した様子なんて微塵もないユエくんを視界に収めつつ、私は先生の書き終えた彼の名前を目で追った。
……ユエって、月って書くんだ。
最初に思い浮かんだのは、そんな単純過ぎる感想だった。
ほとんど聞いたことの名前だったから、漢字なんて想像もつかなかった……というよりも、カロルさんと同じでカタカナなのかとすら思っていたくらいだけど。きっと中国とか、そういう外国の読み方なんだろう。
幻想的で、神秘的で、静かで、美しい夜の象徴となる、光り輝く確かな存在。
そんな『月』っていう文字に、普通とは異なる不思議な響きが相まって、彼の雰囲気にすごく合っている気がした。
時間にすればほんの数秒なんだろう、僅かな間を置いて先生が月くんに顔を向ければ、促される形で月くんが改めて正面に向き直る。
「……フランスから来ました、転入生の赤城月です」
静かに紡がれたテノールは、決して大きいわけじゃない。それでもはっきりと私の耳まで届いたのは、彼自身が通る声をしているからなんだろう。もしくは、その双眸と同じく強い意思がそこに込められているからかもしれない。一切の揺らぎのないそれは、まるで舞台の上の歌手か役者であるかのように、堂々として聞こえたから。
「日本には五年前まで住んでいました。高校に関しては分からない部分が多いので、色々と教えて頂ければ幸いです……」
淀みなく話していた彼は、ふつりとそこで言葉を区切った。真っ直ぐな視線が、確かめるようにゆっくりと教室の端から端へ移動する。まずは廊下側の列から、中央、そして窓際へ。流れるようなそれは決してどの位置にも留まることはなかったけれど、月くんを見続けていた私と偶然目線が交差して。
……そうしてそのまま、彼は視線を固定した。
どきりとしたのは、今朝方の……別れ際の一件のこともあったけれど、もう一つ。彼程強くしっかりとした目に見据えられて、普段あんまり視線を向けられない私にとっては慣れない感覚に酷く動揺したからだ。
かなり長く感じたけれど、きっと正しい時間に直せばほんの五秒くらいの間のこと。ふ、と私から視線を外した月くんは、教室のどこを見るわけでもなく中央の辺りに向き直る。
「……どうぞ宜しく」
一言。
たった一言で、何かが弾けたような勢いで教室中が一気に沸いた。
「何何何!?」
「声まで良いじゃん!」
「何今の!」
「反則でしょ!?」
その大半はもちろん女の子の声だ。普段よりも数段高い声音で交わされる会話は決して密やかではないけれど、先生も今日ばかりは注意もほとんどしないままに苦笑しながら納得顔だ。
多分、長年教壇に立っている先生から見ても、月くんが特別な子だと感じているんだろう。いや、もしかしたら、多くの生徒を見てきたからこそ、なのかもしれない。そう思える程、月くんは何もかもが秀でて見えた。
男子から見てもやっぱり感じるものがあるんだろう。いつもなら倉前くんや芸能人の誰かに対して騒ぐ女子に否定の言葉を浴びせてかかる男の子達も、今日は比較的大人しい。ただ先生とは違って不満そうな表情を浮かべている子がほとんどだから、きっと反論できないだけで、否定したいのが本音なんだとは思う。
「それじゃあ、まだ時間もあることだし、赤城くんに何か質問がある人は……」
「はいはいはい! 彼女いますかーっ!?」
先生の言葉を半ば遮るような形で真っ先に挙がったのは、きっと多くの生徒が一番気になっていただろうこと。
ここでもまた「いきなりかよ」なんてぽつぽつ男の子の発言が耳に入ってはくるけれど、本心では答えが聞きたいんだろう、強い否定は誰もしない。
そうして、全員の視線が月くんに向いた。
初登校日初日からクラス全員の注目を浴びたら、私なら確実に緊張して冷静さなんか保てない。けれども月くんは慣れているのか元々がそういう性格なのか、質問の内容にも自分の置かれた状況にも顔色一つ変えなくて。
「否、」
あっさりと返された短い単語は、その後に何かが続くはずだったんだろう。けれどもそれを言った時点で先が予測できたからか、女の子達が一気に顔を輝かせた。
「いないんだ!」
「やったーっ!!」
「はああぁぁ!?」
「マジかよ……」
一方の男の子達は見事なまでに落胆の表情を浮かべて、彼女達とは正反対だ。気持ちは分からなくもないけれど、例え恋人がいたところで諦める子がどれ程いたかに関してはただただ疑問の一言だ。私の前に席っている彼女だって、遠距離だったら可能性も……なんて話をしていたくらいだし、マッチ程のレベルの子が相手じゃなければって思ってる子は多いはず。
そういえば……と、そのマッチの反応が気になってちらりと後姿を見れば、ぼんやりとした表情で月くんのことをじっと見つめてる。更にその向こう側では、倉前くんが険のある顔でじっと月くんを睨んでて。
「んじゃー、好きな人はいますかー!」
負けじと男子が手を挙げれば、再び訪れた沈黙とともに、皆の瞳が月くんへ向く。これも気になる質問なんだろう、さっきよりも皆の意識が集中しているのが分かった。
私も彼に視線を戻す。
彼は、今度はすぐに答えなかった。
ただ、表情こそ変化はさせなかったけど、ほんの少しだけ考えるように視線を落とし。
そして、一瞬。
……ほんとうに、一瞬だけだけど。
――私と、完全に目が合った。
意味もなく心臓がどきりと跳ねる。
ただの偶然だ。そう、たまたま目が合っただけ。この中では私が唯一の知り合いだから、自然と目を向けただけなんだろう。そうに決まってる。きちんと、頭では理解してるのに。
……それなのに何故か気になるのは、きっと今朝の一件と、彼のトクベツな雰囲気がそうさせるだけ。
意味はない、はずだ。彼の行動にも、私自身の反応も。
自分へと繰り返し言い聞かせつつ、私は逃げるように視線を落とした。それでも尚月くんの視線を感じるような気がしたけれど、きっと気のせいだとなるべく考えないようにする。
再び訪れた静寂。クラス中が思い思いの期待をかける中、感じていた視線がなくなって。
「……ノーコメント」
静かに響いた簡潔な言葉に、教室中がまた喧騒を取り戻す。
「え……何? どっち?」
「いるってこと!?」
「そうじゃない……?」
「ええ!? 嘘ー!」
「残念だったなー、お前ら!」
「潔く諦めろよー」
「可能性ねーぞー」
女子の悲鳴と、一安心したかのように元気を取り戻した男子。対照的なその反応に、私は俯いたままほんの少しだけ苦笑した。素直だなぁと、率直な感想が頭に浮かぶ。
ただ、そんな中で今朝方話題になっていた二人……マッチと倉前くんの声だけは一切聞こえてこない。この騒ぎでかき消されてるのかもしれないと思ったけれど、どうやらそれは違うみたいだ。相変わらずじっと月くんを見据える二人のうち、倉前くんは明らかに月くんに対して警戒しているのが分かる。対照的に、マッチは表情がほとんど見えないこともあってか、今一つ反応が掴めないけれど……
でもまあ、今それを知ったところで別にどうなるわけでもない。
追々分かることか、と、気にしないことにしてから改めて正面に向き直る。
中々静まる気配の見えない興奮した状態に、先生の方でもこれ以上質問を求める必要はないと判断したみたい。穏やかに苦笑を浮かべると、気を取り直すように口を開く。
「じゃあそろそろ席に座ってもらおうか。白井さんの隣だから……白井さん」
「あ……はい!」
名前を呼ばれて、とっさのことに軽く手を挙げる。……よくよく考えたら月くんは苗字を聞けば私のことだってすぐ分かったはずだけど、その辺りはご愛嬌ってことにして欲しい。非常に気まずいというか、恥ずかしいから。
こっちを見た月くんに、ほんの少しだけ緊張しながらも、手をゆっくりと下ろしてく。相変わらず表情に変化のない月くんだけど、本当に少しだけ、その目元が和らいだ気がした。
今唯一の空席になっている私の隣に、足音もなく月くんが近付いてくる。何となくそれを目で追っていれば、月くんは肩からかけていた鞄を静かに自分の机へと置いた。丁寧な動作に、鞄の音はほとんどしない。
見上げた先にある横顔の奥、肩よりも少しだけ長い銀色の髪が、陽の光を受けて透き通るように光って見える。長い睫に縁取られた目蓋を伏せがちに、彼は静かに自分の席へと腰かけた。特に意識してはなさそうだけど、きちんと背を伸ばして座るその姿勢からはやっぱり堂々とした空気……気品のようなものに満ちていて。
「……隣の席か……」
不意に、ゆるりと開かれた唇から、吐息交じりの呟きが零れた。
発言の意図を私が理解するよりも先に、月くんはそっと目を伏せる。
「――良かった」
どこか柔和にも響いて聞こえたのは、私の気のせいだったのか。ちょっとだけ口角を上げながら独り言ちた月くんは、再び目蓋を開けながらゆっくりと右側――私の方へと顔を向けた。
薄青がかった灰色の目が一際穏やかに細められ、真っ直ぐな双眸に私の姿を映し出す。
「宜しく頼む、」
――由季、と。
無愛想とは程遠い優しげな表情で微笑みながら、確かに呼ばれた私の名前。
けれどもそれは、ほぼ同時に響き渡った黄色い悲鳴にかき消されて、きっと私以外の人には届かなかったことだろう。
「ちょっと見た!? 今の顔!」
「見た見た!!」
「ヤバくない!?」
「カッコいいーっ!!」
はしゃぐ彼女達のあまりの声の大きさに、とっさに言葉を返すことができなかったけれど、それも仕方がないことだと思う。
私だって、あの笑顔を見た瞬間、一瞬息が止まったから。
「……うん」
半ば声をクラスメイトのものに埋もれさせながらも、どうにか小さく頷いて、ちらり、俯きがちになりながら月くんのことをおずおずと見上げる。
「よろしく……」
あまりにも優しげな表情に、どうしても心が落ち着かない。正面からしっかりと見つめることができないまま、それでもどうにかその一言は伝え切る。はっきりとした大きな声ではなかったけれど、隣の席だから月くんの耳にもしっかりと届いたんだろう。ふ、と穏やかな微笑を浮かべた月くんは本当に綺麗で、その視界に私が入ってるんだと思うだけで気恥ずかしくて仕方がない。
教壇では先生が苦笑しながら、連絡事項を言うのが微かに耳へと入ってくる。けれどもほとんどの人が気付かずに話しているせいで、その大部分が認識できずに掻き消えた。それ程までの勢いで、教室中が月くんの話題で持ちきりだ。当の本人といえば、丸で気にした風もなく黒板に向き直っているけれど。……きっと昔から美人さんなんだろうし、こういう反応には慣れてるのかな、やっぱり。浮かんできた私の疑問には、当然返答があるはずもない。
ホームルームの終わりを告げる先生の声。それを冷静な気持ちで聞いていたのは、多分月くん一人だけだ。互いに会話に集中していた他の子達も、先生が出て行った扉の音でホームルームの終了を理解したんだろう。先生の姿が教室内にないことを確認した女の子達が、我先にと席を立って月くんの下に駆け寄ってくる。
「赤城くん、はじめましてー!」
「これからよろしくね!」
「分からないことあったらあたしに聞いて!」
「ちょっと! いきなりズルいわよ!!」
「ねえねえ! カノジョいないって本当!?」
次々に集まってくる女の子達は、あっという間に月くんの机を取り囲む。彼女達が壁になっていて、隣の席の私ですらほとんど月くんの姿は見えない。ただ、彼女達が身を乗り出しがちに話しかけているせいか、時折その横顔だけは窺えた。
けれどもその表情は、たまに微笑を浮かべる以外は、ほとんど無表情に近いもの。その微笑だって、薄く笑ってはいるけれど、さっきのような柔らかなものとは確実に異なっていて。
きっと、私が知り合いだったから。平然としているように見えてもやっぱりどこかで緊張していたんだろうとか、初対面の相手に最初から普段通りの笑顔なんて浮かべられる人はほとんどいないだろうとか。冷静な部分ではきちんと理解してるのに、ただひたすらに頭に浮かんで消えるのは別のこと。
……優しい笑顔を向けてくれた。
――……私だけに。
そんな考えが浮かぶたび、酷く胸が高鳴るような気がした。




