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 櫻井とは〈Un(アン) sourire(スリール) d’ange(ダンジュ)〉で出会った。天使の微笑みという意味の店だったが、櫻井が笑ったところを私は一度も見たことがない。しかし、櫻井にはお菓子に対する情熱があった。櫻井が〈Un(アン) sourire(スリール) d’ange(ダンジュ)〉のオーナーと揉めて辞めたとき「いつか自分の店を持ちたい。そのときは、一緒に働いてほしい」と初めて声をかけたのがきっかけだった。

 可南子ちゃんは私が店を初めてすぐの頃、店にやって来たお客様だった。開店当時は、誰かを雇うほどの実力も資金もなかったので、ひとりで始めた。櫻井が私の店で働き始めたのも、可南子ちゃんより一年後だ。可南子ちゃんは、私がかつてダミアンに懇願したように、ここで働かせてほしいと言った。今でもよく覚えている。可南子ちゃんは「美味しいお菓子は、それこそ山のようにある。ほっとする懐かしい味や、ここぞという特別なときに食べたい味。だけど、夏帆さんのケーキは、些細な日常を素敵に飾ってくれる、毎日食べたい特別な味なんです。自分が美味しいと思ったものはずっとおすすめしてきたけど、本当は自分が独り占めしたいくらい美味しかったのは、ここが初めて。だから、働きたいと思ったんです」と言った。アルバイトでもそんなにお金は出せないと言ったのに、可南子ちゃんは私のために店で働いてくれた。正直、可南子ちゃんがいてくれたから、この店は人気が出た。甘いものと文学をこよなく愛していると自分でも言っていたけれど、可南子ちゃんは私が作ったものをすべて食べて、全部を理解した上で細かくおすすめしてくれている。そうして、一年経って人気が出て来た頃に、櫻井が履歴書を持ってやって来た。

 私は、無愛想だけどお菓子に情熱を注ぐパティシエの櫻井稔と、元気いっぱい甘いものが大好きな販売兼SNS担当の滝本可南子ちゃんと三人で、このシュクルを経営している。二人とも、私がどういう人間なのか、すでによく理解している様子だった。


「あー……ごめん」

「だから、不味くなるだろうが」


 私はそっと自分の両手を見つめた。

 昨晩、この手で七層のオペラを引っ掴み、新一に投げつけた感覚が、今もまだしっかり残っている。なんてことをしたんだ、私は。丹精込めて作ったケーキを、人に投げつけるなんてパティシエール失格だ。卵だって小麦だってカカオだって、なんでも価格高騰し続ける世の中だ。そもそも食材を粗末に扱うことは誰にだって許されない。私はあの後、床に落ちたオペラを拾って食べた。

 可南子ちゃんは私の表情を見てなにかを察したのか、「きょうは、シュークリームの日にしましょー! SNS、更新しときますね!」といつもの調子で言った。

 開店から三年経った昨年、店を増築させて、イートインのスペースを作った。これからきっと、もっともっと大きくなる。私がまだ製菓専門学校へ行く前から私を知っている新一には、この先もずっと一緒にいてほしかった。

 私はこれまで自分が辿ってきた岐路を思い返しながら、いつもの倍のシュークリームを焼いた。うちのシュークリームは生クリームとカスタードクリームを二層にして作る。生地はカリカリサクサクで、クッキー生地のような食感が楽しめる。カスタードクリームは濃厚ながらもなるべくくどくならないよう、さっぱりに。生クリームは鳥の羽のように軽いものを作っている。

 店の開店時間は十一時。閉店は十九時。定休日は月曜と火曜の週二日。つまり、明日明後日は休みだ。もし、誕生日ケーキや記念日ケーキの依頼が定休日と重なった場合、私がひとりで対応している。だって、誕生日や記念日は年中いつでも関係ない。うちのケーキを誕生日や記念日に食べたいと言ってくださるお客さんがいる限り、私は休まずケーキを作る。そういう特別なケーキを作る瞬間が、一番好きだからだ。

 そうだ。

 そろそろ、誕生日ケーキの準備をはじめなければ。


「きょうは、田中様の誕生日ケーキ、十八時に受け取りですね」


 手際よく焼き菓子を梱包した可南子ちゃんが、さらっと予定の確認をしてくれた。いつもならそんなことは言わない。でもたぶん、きょうの私はいつもと違うから心配で言ってくれたんだと思う。

 田中様は、可南子ちゃんと同じく店を始めてから来てくれている常連客のひとり。いつも夫婦で仲良く来店されて、結婚記念日や誕生日は必ずうちで予約をしてくださる。きょうは、ご主人様の誕生日。最近は、ご主人様が奥様へサプライズでカットケーキをご購入されたのを覚えている。


「厨房に私情を持ち込むな」


 相変わらず黙々と作業を続けている櫻井に、喝を入れられた。正論だ。なにも言い返せない。

 私は大きく深呼吸して、自分で両頬を軽く一度だけ叩く。


「……よし、」


 櫻井の言う通り、私は田中様の特別な日を飾るケーキを作る。十六年という歳月を共にした恋人から唐突に別れを切り出されたとしても、それはなんの関係もない。ケーキの味を損ねたり、装飾に失敗したりすることは、絶対にあってはならない。

 田中様が注文したのは、シャルロット・オ・フリュイ。

 それぞれ季節に合わせた旬のフルーツを使っていて、今月六月はメロン。ビスキュイ生地は、絞り袋で細長くして焼き上げ、これを器にする。中にはメロンの甘さを生かすため、レアチーズのムースを使う。レアチーズの酸味と上品な味わいが今だけの特別な味だ。

 このケーキはもともとイギリス発祥のもので、ソフィア・シャーロットという王妃の名前にちなんでつけられた。彼女は流行ファッションが好きだったそうで、貴婦人の帽子をイメージして作られたとか(ダミアンから聞いた)。この形になるまでに、たくさんのパティシエたちが改良を加えてきたのだろう。

 丸くくり抜いたメロンをたくさん乗せて、丸く絞った生クリームで飾り付け、最後にプレゼントのように飴細工で作ったリボンを添える。HAPPY BIRTHDAYの文字は丁寧に、田中様ご夫婦の喜ぶ顔を想像しながら書いた。

 慌ただしく開店前までの時間があっという間に過ぎ、店が開店し、お客様がやって来る。可南子ちゃんだけでは大変なので、私も手が空いたときには接客も担当する。櫻井はあまり愛想がよくないので、出すわけにはいかない。

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