第一章 真夜中のパティスリー 1
Mon métier, c'est de créer des pâtisseries dignes des plus belles femmes.
(美しい女性に相応しいお菓子を作る、それが私の仕事だ。)
とキッパリ言い切ってしまう、恋多きパティシエ――ダミアン・メルシエのフランス洋菓子はどれも有名だ。店はフランスパリにある〈La fortune〉。運命の女神という名の通り、ダミアンの洋菓子店で私の運命は大きく変わった。
〈La fortune〉東京店にダミアンが来日するという話を聞き、私は開店と同時に店に足を踏み入れた。スイーツ好きで県を超える人は多いし、ダミアンはイケメンとしても有名だったので、混雑を心配して私は真夜中から店の前に並んでいた。
ダミアンの洋菓子はどれも、王女に贈るジュエリーのように装飾が美しい。ひとつひとつ、丁寧に飾られている。飴細工の飾りや、フルーツの切り方ひとつでも、美しさが違う。
ガラスケースの向こうに並ぶケーキは、全部最高級ジュエリーに見えた。本当ならば、ガラスケースの端から端まで、すべてのケーキを味わいたかった。ジュエリーではないが、やはり有名パティスリーのケーキはひとつひとつが高級。そこまでのお金は使えないので、仕方なく厳選して三つのケーキを購入した。
ひとつ目はシャルロット・オ・フリュイ。ビスキュイというスポンジ生地を細長く絞り出して焼き、それを器にするのがこのケーキの特徴。中にはムースやババロアを流し入れ冷やし固める。上にはイチゴやブルーベリー、ラズベリーがたっぷり乗っている。ふたつ目は、タルト・オ・プラリーヌ・ルージュ。プラリネを赤く着色させた真っ赤なタルト。まさに名前の通り、口紅のような艶やかさ。お菓子なのに色気さえ感じる。プラリネを赤く着色して使うのは、フランスリヨンなどの地方では有名で、ダミアンはリヨン出身。このタルトは〈La fortune〉の定番商品だ。そして、最後に絶対食べたかったのがオペラ。マカロンもふたつ購入した。
ダミアンはファンに取り囲まれ、写真や握手やサインを求められていた。私も、サインを化粧箱に書いてもらったし、ちゃっかり握手もしてもらった。ダミアンの手を握って、あ、と思った。その手の皮膚は分厚く、あちこちタコができていて固かった。ちらりと見えた手には古いやけど痕があった。パティシエの手だ、と感動した。
急いで家に帰り、そっと箱を開ける。白い箱から顔を出すのはダイヤモンドではないけれど、それに等しい美しさと輝きがある。ダイヤモンドは食べられないが、これは食べられる。しかも、どれも全部美味しい。私は鼻をすすり、涙を流しながら食べた。オペラを食べたとき、しょっぱかったのは自分のせいだ。
製菓専門学校を卒業して、どうしてもダミアンが作る芸術性の高い洋菓子に憧れて、フランスのパリへ渡った。ダミアンの元を訪れ、最初は断られたが一週間毎日頼み込み、なんとか雇ってもらえた。私が雇われたのは、才能や熱意なんかではなく、お世辞でも美人とは言えないがダミアンが女好きだからなのでは、と〈La fortune〉のパティシエたちはみんなこそこそと噂していた。雇われたといっても、初めは掃除ばかりで過酷な日々が続いた。言葉もわからないから、毎日睡眠時間を削りに削って、言葉を覚えた。何度も日本行き航空券の購入ボタンを押しそうになったけれど、そんなときは必ずダミアンのオペラを食べて、踏み留まった。
でも私は、ダミアンが好むパティシエールにはなれなかったらしい。
「Je n'ai pas besoin de toi. Rentre au Japon.(私にあなたは必要ない。日本へ帰りなさい)」
ダミアンの元で働いて二年、唐突に別れを告げられた。
「Ce que tu peux faire maintenant, c'est surtout du tourisme. Depuis que tu es arrivé en France, tu n'as fait que de la pâtisserie sans penser à rien d'autre, je me trompe ? Si tu veux devenir pâtissière, tu dois aussi pouvoir voir et ressentir toutes les belles choses qui t'entourent.(あなたが今できることは、観光くらいだよ。フランスへ来てから、お菓子ばっかり作って他のものに目を向けなかったでしょう。パティシエールになりたければ、美しいものをたくさん見て感じること)」
ダミアンのどこか鼻につくフランス語が、次から次へと私に突き刺さった。ダミアンが言った言葉の意味は理解できる。でも、納得はできなかった。
私は悔し涙を流しながら、飛行機に飛び乗った。
日本へ帰国後、〈Un sourire d’ange〉というパティスリーで働きながら学び、三十歳で念願の店〈シュクル〉をオープンさせた。悔しさを忘れられなかった私は、ダミアンから佐藤が砂糖と同じ発音であること、パティシエールとしてまだまだ甘いという意味でシュクルと呼ばれていたのを、そのまま店名に採用した。
私は未だ、あの日のダミアン・メルシエの言葉を根に持っている。なにが〈La fortune〉だ。女好きでいつも痛い目を見ているダミアンの店なら、〈femme fatale〉(魔性の女)にリニューアルすればいいのに。
私が忘れられない言葉に、新一のも加わった。新一だけは、私の味方だと思っていた。だって、高校三年生から付き合っている。私の青春はお菓子と新一、それだけだったのに。それにすべてを捧げたのに。
「やめろ、不味くなる」
シュー生地にクリームを入れていた櫻井がちらっと私を見て言った。すぐ視線を私からシュー生地に移し、真剣な眼差しで見つめていた。櫻井は、人に対してこんな表情は絶対にしない。櫻井が見つめる先にあるのは、必ずお菓子がある。
「おはようございまーす」
元気な声で、制服に着替えた可南子ちゃんが厨房に入って来る。
「フィナンシェ、マドレーヌ、もう冷めてるから。滝本は梱包」
相変わらず真面目な顔つきでシュー生地だけ見つめて、可南子ちゃんの表情は一切見ずに言った。でも可南子ちゃんはそんな櫻井には全く動じず、うーんとうっとりとしたため息をついた。
「この香ばしくも濃厚なバターとアーモンドの香り。櫻井さんのフィナンシェは世界一ですね」
可南子ちゃんはまるで宝石でも見るような目で、ずらりと並んだ細長いフィナンシェを見つめた。
「レモンの爽やかな香りが、夏の朝にぴったり。貝殻の形っていうのがやっぱり素敵だわ。マドレーヌは、佐藤さんのが一番」
ひとりでずっと焼き菓子たちに話しかけながら、可南子ちゃんは丁寧にひとつずつ袋に詰めていく。
「ありがとう、可南子ちゃん」
「それにしても佐藤さん、なにか悩み事ですか?」
「え?」
「だって、こーんなにたくさんのシュークリーム。佐藤さんって、なにか悩んでるときは必ず決まってシュークリームですよね」
ええ、と私は手元を見る。櫻井が詰めているクリームは、私が大量に焼いたシュー生地だった。




