はじまりはオペラ
La vie est le chocolat, c’est l’amer qui fait apprécier le sucre.
(人生はチョコレート。苦味が甘味を引き立たせる。)
コロンビアスプレモの深煎りをエスプレッソで抽出して、しっかりとした苦味と深いコクを出す。苦味に引き出される甘味は、まるでビターなチョコレートのよう。オペラはフランスの伝統菓子で、アーモンド生地、コーヒーバタークリーム、チョコレートガナッシュ、グラサージュショコラなどを七層に丁寧に重ね合わせたケーキ。しっとりした奥深い味わいは、大人の贅沢とも言える。
「座って。いつもの、持ってくるから」
ダイニングテーブルにふたつ、オペラを並べた。ケーキ皿は白い正方形の陶器製。オペラ特有の端正で艶やかなチョコレート色の四角形が、陶器の滑らかな白に美しく映える。
きょうは今年初の三十二度を超えて、夜になっても蒸し暑い。私は氷をグラスにいれて、カフェラテを注いだ。
オペラに合う飲み物は、断然エスプレッソ。でも、濃いコーヒーが苦手な新一には、カフェラテが合う。ミルクが口当たりを滑らかにしてくれる。
「夏帆、話があるんだ」
新一は神妙な面持ちで、席に座らず立ったままだった。
「なに、そんな顔して。とにかく座ってよ」
思い出してにやけてしまうほど嬉しい夜も、悔しくて涙を流してしまう夜も、私は決まってオペラを焼く。
グラッサージュで艶々とした表面に、ひとひらの花びらのような金箔を散らす。
フランスで二年、パティシエールの修行をしたのに師匠ダミアン・メルシエに認めてもらえなかった夜も、高校の頃からの恋人新一と同棲を始めた夜も、オペラを焼いた。今夜はそう、特別な夜になる。
私は鞄に入れた分厚い結婚雑誌を一瞬、見た。
「ごめん、もう終わりにしたいんだ」
アイスカフェラテをキッチンカウンターに置く。静まり返った部屋に、カランと氷の音だけがやけに大きく聞こえた。
「……え? 終わりって、なにを?」
「僕たちは、別れるべきだ」
私は笑って「冗談はやめてよね」と言ったが、新一の表情はすべてを物語っていた。
「なんで、今?」
私たちは高校三年生の頃から今までずっと付き合ってきた。お互い進む道は違ったけれど、常に支え合ってきた。日本とフランスまで遠く離れた時期もあったけれど、それすら超えて、絆を強めてきたはずだった。今年私たちは三十四歳になる。新一は恋人以上で、親友で、家族で、大切な存在だ。それなのに、なんで。
「夏帆の人生に僕は必要ない。僕はもう、五年くらい前から気づいてる」
新一のその一言に、私は今まで感じたことのない強い怒りで身体中いっぱいになった。触れれば火傷するほど熱いキャラメルが、身体の底から湧き上がっているのを感じる。
視界に入った艶やかなオペラを、私は素手で掴み、新一に投げつけた。掴んだ瞬間、自分で自分の心臓を抉り出したみたいに痛かった。
新一は微動だにしない。白いシャツにチョコレートがべったりとくっついて、虚しく落ちる。
「なにが必要でなにが必要じゃないかは、私が決めることでしょ!」
私は叫んだ。叫んでから息を吸う。立ちくらみがして、カウンターに手をついた。指先についたオペラがぬるっとすべる。
「……出て行って」
新一だってここに住んでいるのに、私は我儘にそう言った。
「わかった」
汚れたシャツのまま、新一は仕事用の鞄だけを持って、素直に出て行った。
部屋中、チョコレートとコーヒーの香りが漂っていた。思いっきり投げつけてしまったオペラの残骸が、四年間共に過ごした部屋の床に散らばる。
私はオペラがついたそのままの手で結婚雑誌を掴み、無理やりごみ箱に押し込んだ。
オペラの七層のように、ひとつずつ手間をかけて作り上げた長い日々が、一瞬で崩れて消えた。
時刻は――真夜中。




