09 アカライ・後編
五和は何事もないように靴を脱ぎ、公民館へ入っていく。
鼎も慌てて後を追った。
玄関には地域の掲示板が並んでいる。
夏祭りの案内、健康診断、防災訓練。
その中に、一枚だけ少し色褪せた盆踊り大会のポスターが貼られていた。
今年の日付を書き直した紙が、その上から丁寧に貼られている。
館内は冷房こそ効いているものの、どこか畳と木材の匂いが残っていた。
廊下を進む。
和室では老人たちが囲碁盤を囲み、穏やかに笑っている。
「いやいや、そこへ打ったら負けじゃ。」
「まだ終わっとらんよ。」
「欲張ると碁は負ける。」
笑い声が部屋いっぱいに広がる。
鼎は思わず足を止めた。
どこにでもある、夏の昼下がりだった。
調理室からは味噌汁の香りが漂ってくる。
「もう少しお湯沸かしといて。」
「お客さん増えるかもしれんしねぇ。」
エプロン姿のおばあちゃんたちが手際よく準備をしている。
その横を、小学生くらいの男の子が勢いよく走り抜けた。
「こらー! 廊下は走らない!」
すぐに誰かの笑い声が返ってくる。
鼎は思わず五和を見る。
「……ここ、本当に。」
「ああ。」
それだけだった。
何一つ説明しようとしない。
(どう見ても普通の公民館だろ……。)
アカライ。
父が所属していた組織。
境界を見守る者たち。
そう聞いていたから、もっと厳重な施設を想像していた。
少なくとも、囲碁を打つ老人や、夕飯の支度をしているようなおばあちゃんがいる場所ではない。
五和は廊下の突き当たりまで歩き、一枚の引き戸を開けた。
そこは体育館だった。
途端に空気が変わる。
さっきまで聞こえていた笑い声が、扉一枚隔てただけで遠くなる。
整然と並べられたパイプ椅子。
十数人ほどの男女が静かに腰掛けていた。
年齢は様々だった。
二十代ほどの青年。
三十代、四十代と思われる男女。
白髪交じりの男性。
杖を椅子へ立て掛けた老人までいる。
(……受験生?)
鼎は思わず息を呑んだ。
同世代ばかりではない。
それぞれ服装も違う。
スーツ姿の男性。
作業着のまま来たような中年。
動きやすそうな服装の女性。
退職後と思われる老人。
まるで共通点が見つからない。
ただ一つ。
全員が、どこか同じ空気を纏っていた。
静かだった。
その視線が、一斉に鼎へ向く。
前方に立っていた青年が、ゆっくり顔を上げる。
二十代後半ほどだろうか。
整えられた黒髪。
涼しげな目元。
感情を表へ出さない表情。
青年は鼎ではなく、五和を見た。
「……五和さん。」
静かな声だった。
しかし体育館中へよく通る。
「話は聞いています。」
五和は短く頷く。
「結果としては、無事だった。」
青年は首を横へ振る。
「それは結果論です。」
空気が少し張り詰める。
「境界は運ではありません。」
一拍置いて、
「知識です。」
誰一人、口を挟まない。
「何も知らない一般人を境界へ連れて行くべきではありませんでした。」
五和は黙って聞いていた。
「……その通りだ。」
「言い訳はありますか。」
「ない。」
「責任は。」
「俺が負う。」
青年は静かに息を吐く。
「あなたが責任を負えば済む話ではありません。」
鼎は耐えきれず、一歩前へ出た。
「……俺が。」
全員の視線が集まる。
「俺が行くって決めたんです。」
静寂。
青年は初めて鼎を見る。
その目には怒りはなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「あなたは知らなかった。」
鼎は何も言えない。
「知らなかったから。」
青年は五和へ視線を戻す。
「五和さんは、止めるべきだった。」
正しい。
誰よりも正しい。
だからこそ、反論できなかった。
重い沈黙が体育館を包む。
その時だった。
「──そのへんにしておきなさい。」
穏やかな声が、廊下の方から聞こえた。
鼎は振り返る。
そこに立っていたのは──。
さっきまで和室で囲碁を打っていた老人だった。
老人はゆっくりと体育館へ入ってくる。
さっきまで囲碁を打ちながら笑っていた姿と何も変わらない。
違うのは、この場にいる誰もが、その老人の言葉を待っていることだけだった。
青年も、一歩だけ後ろへ下がる。
五和は静かに頭を下げた。
「すみません。」
老人は苦笑する。
「謝るのは後でもできます。」
そして鼎へ向き直った。
「初めまして。」
穏やかな笑みを浮かべる。
「私はこの場を預かっている者です。」
その物腰はどこまでも柔らかい。
肩書きを名乗ることもなければ、威厳を見せつけることもしない。
それでも、この場の誰一人として軽く扱う者はいなかった。
「立ったままでは疲れるでしょう。」
近くの椅子へ手を向ける。
「どうぞ。」
鼎は小さく会釈し、勧められた椅子へ腰を下ろした。
老人も向かいへ座る。
その様子を見て、周囲の者たちも静かに腰を下ろした。
体育館は再び穏やかな静けさを取り戻す。
「では。」
老人はゆっくり口を開く。
「境界で、何を見ましたか。」
鼎は小さく息を吸う。
「……正直、うまく説明できません。」
「構いません。」
「思い出せることを、そのまま話してください。」
責めるような声ではなかった。
だから鼎も、少しだけ肩の力を抜くことができた。
「最初は、普通の山でした。」
「でも、途中から違う気がしたんです。」
「違う?」
「音が……。」
鼎は眉を寄せる。
「鳥の声が近くから聞こえたと思ったら、急に遠くなって。」
「風も吹いてたのに、突然全部止まったようになって。」
「空気まで変わった気がしました。」
誰も口を挟まない。
老人は頷きながら聞いている。
「景色も……同じ山のはずなのに、知らない場所へ来たみたいで。」
鼎はゆっくり記憶を辿る。
「あとは……。」
その瞬間。
調理室にいたおばあちゃんが、湯呑みを載せた盆を持って体育館へ入ってきた。
「お話の途中、ごめんなさいねぇ。」
にこにこと笑いながら、一人ひとりへお茶を配っていく。
「ありがとう。」
老人が礼を言う。
「今日は暑いですからねぇ。」
おばあちゃんはそう言って微笑むと、何事もなかったように体育館を出ていった。
鼎だけが、その後ろ姿を目で追っていた。
(……さっきの人。)
調理室で笑っていた、おばあちゃん。
誰も紹介しない。
誰も驚かない。
まるで最初からここにいるのが当たり前であるかのようだった。
「続きを。」
老人の声で我に返る。
「あ……はい。」
鼎は視線を戻した。
「子どもを見ました。」
その一言で。
体育館の空気が変わった。
青年の視線がわずかに動く。
奥に座っていた女性が手帳を開き、静かにペンを走らせる。
「七歳くらいです。」
「白い服を着ていて。」
「ずっと笑ってました。」
「こちらを見ながら。」
老人は静かに尋ねる。
「何か話しましたか。」
「……いいえ。」
「何も。」
「ただ、ずっと俺を見ていました。」
老人はゆっくり頷く。
「そうですか。」
それだけだった。
鼎は思わず口を開く。
「知ってるんですか。」
老人は少しだけ考えるように目を伏せた。
「知っていることと。」
体育館が静まり返る。
「説明できることは違うのです。」
鼎は意味が分からず、黙るしかなかった。
老人は湯呑みに口をつけ、一息ついてから続ける。
「私たちは境界を調べています。」
「ですが、境界をすべて知っているわけではありません。」
「境界に赴く者もいれば、記録を残す者もいます。」
「土地を見守る者、伝承を調べる者。」
「役目は、それぞれです。」
老人は体育館をゆっくり見渡した。
「ここにいる者も、それぞれです。」
「年齢も、仕事も、暮らしも違う。」
「それでも、同じものを見つめています。」
鼎は改めて周囲を見回した。
若者も、老人も。スーツ姿も、作業着姿もある。
本当に、様々な人たちだった。
「境界は、人の暮らしの隣にあります。」
「だから私たちも、人の暮らしの中にいます。」
その言葉を聞いた瞬間。
公民館で囲碁を打つ老人や、お茶を淹れていたおばあちゃん、廊下を走る子どもたちの姿が、鼎の頭の中で一つに繋がった。
(だから……公民館だったのか。)
老人は微笑んだ。
「さて。」
湯呑みを静かに机へ置く。
「アカライについては、このくらいにしておきましょう。」
そして全員を見回した。
「これより、試験について説明します。」
鼎は静かに息を呑んだ。
試験が、始まる。
今回も読んでいただき、ありがとうございます。




