07 日常
境界から戻って数日が経った。
俺は五和と連絡先を交換した。
「何かあれば連絡しろ。」
それだけだった。
数日前までなら、知らない男の連絡先がスマートフォンに増えたところで何とも思わなかっただろう。
今は違う。
その一件だけで、世界の見え方が少し変わってしまった。
もっと劇的な変化を想像していた。
電柱が消えるとか。
空が割れるとか。
神様が歩いてくるとか。
自販機のおしるこが全部売り切れているとか。
そんなことは一つも起きない。
朝になれば大学へ行く。
講義は始まる。
世界は驚くほど普通だった。
普通だったから困る。
強いて言えば、学食のカレーが五円くらい値上がりしていた。
世界情勢は一体どうなっとるんだ。
しかし、世間一般と比べると安い。
その程度だった。
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民俗学概論の講義は今日も淡々と進んでいた。
教授は村落信仰について話している。
人は理解できないものに名前を付ける。
恐れ、祀り、語り継ぐ。
そうやって伝承は生まれるのだという。
教室の何人が真面目に聞いているのかは知らない。
少なくとも俺は、教授の話より境界の景色を思い出していた。
あれは伝承なんかじゃない。
説明のつかないものは、本当に存在する。
知ってしまったのは、たぶん俺だけだった。
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講義が終わると、そのまま部室へ向かった。
オカルト研究会の部室は相変わらずだった。
「今年も○○トンネル行く?」
「去年、警察来ただろ。」
「呪われるなら美少女の幽霊がいい。」
「ロングヘア限定。」
「ショートも捨て難い。」
実に平和だった。
数日前までなら、俺も議論に参加していたと思う。
民俗学的には長髪の女性霊は――などと言い始めて、うるさいと止められていたかもしれない。
今は笑うしかない。
呪いにも、美少女にも、そんな都合のいい話はなかった。
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部室を出る。
夏の夕方は、まだ明るい。
学生たちは笑いながら歩いている。
誰かがアイスを落として騒いでいた。
どこにでもある大学の日常だった。
俺もその中を歩いている。
ちゃんと歩いている。
ちゃんと息もしている。
でも、少しだけ遠かった。
自分だけが、一歩後ろからその景色を眺めているような気がした。
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家に帰る。
父さんの部屋の前で足が止まる。
今日も開けない。
開けられない。
別に中身が変わるわけじゃない。
変わっていないことを知っているから、開けられない。
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スマートフォンが震えた。
画面を見る。
五和だった。
『時間があるなら来い。』
短い文章だった。
場所だけが送られてきている。
返信は求められていない。
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スマートフォンを閉じる。
行かなければ、それで終わる。
明日も大学へ行く。
レポートを書いて。
オカルト研究会で馬鹿な話をして。
学食のカレーがまた五円くらい値上がりしたら文句を言う。
そんな毎日を送ることはできる。
……本当に?
あの日を知ってしまった俺が。
知らなかった頃の俺に戻れるんだろうか。
俺は立ち上がった。
靴を履く。
玄関のドアを開ける。
外はまだ明るかった。
蝉が鳴いている。
夏は何も知らない顔で続いていた。
今回も読んでいただき、ありがとうございます。




