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Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。  作者: 赤足
プロローグ

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7/21

07 日常


 境界から戻って数日が経った。


 俺は五和と連絡先を交換した。


 「何かあれば連絡しろ。」


 それだけだった。


 数日前までなら、知らない男の連絡先がスマートフォンに増えたところで何とも思わなかっただろう。


 今は違う。


 その一件だけで、世界の見え方が少し変わってしまった。


 もっと劇的な変化を想像していた。


 電柱が消えるとか。


 空が割れるとか。


 神様が歩いてくるとか。


 自販機のおしるこが全部売り切れているとか。


 そんなことは一つも起きない。


 朝になれば大学へ行く。


 講義は始まる。


 世界は驚くほど普通だった。


 普通だったから困る。


 強いて言えば、学食のカレーが五円くらい値上がりしていた。


 世界情勢は一体どうなっとるんだ。


 しかし、世間一般と比べると安い。


 その程度だった。



 民俗学概論の講義は今日も淡々と進んでいた。


 教授は村落信仰について話している。


 人は理解できないものに名前を付ける。


 恐れ、祀り、語り継ぐ。


 そうやって伝承は生まれるのだという。


 教室の何人が真面目に聞いているのかは知らない。


 少なくとも俺は、教授の話より境界の景色を思い出していた。


 あれは伝承なんかじゃない。


 説明のつかないものは、本当に存在する。


 知ってしまったのは、たぶん俺だけだった。



 講義が終わると、そのまま部室へ向かった。


 オカルト研究会の部室は相変わらずだった。


 「今年も○○トンネル行く?」


 「去年、警察来ただろ。」


 「呪われるなら美少女の幽霊がいい。」


 「ロングヘア限定。」


 「ショートも捨て難い。」


 実に平和だった。


 数日前までなら、俺も議論に参加していたと思う。


 民俗学的には長髪の女性霊は――などと言い始めて、うるさいと止められていたかもしれない。


 今は笑うしかない。


 呪いにも、美少女にも、そんな都合のいい話はなかった。



 部室を出る。


 夏の夕方は、まだ明るい。


 学生たちは笑いながら歩いている。


 誰かがアイスを落として騒いでいた。


 どこにでもある大学の日常だった。


 俺もその中を歩いている。


 ちゃんと歩いている。


 ちゃんと息もしている。


 でも、少しだけ遠かった。


 自分だけが、一歩後ろからその景色を眺めているような気がした。



 家に帰る。


 父さんの部屋の前で足が止まる。


 今日も開けない。


 開けられない。


 別に中身が変わるわけじゃない。


 変わっていないことを知っているから、開けられない。



 スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 五和だった。


『時間があるなら来い。』


 短い文章だった。


 場所だけが送られてきている。


 返信は求められていない。



スマートフォンを閉じる。


行かなければ、それで終わる。


明日も大学へ行く。


レポートを書いて。


オカルト研究会で馬鹿な話をして。


学食のカレーがまた五円くらい値上がりしたら文句を言う。


そんな毎日を送ることはできる。


……本当に?


あの日を知ってしまった俺が。


知らなかった頃の俺に戻れるんだろうか。


俺は立ち上がった。


靴を履く。


玄関のドアを開ける。


外はまだ明るかった。


蝉が鳴いている。


夏は何も知らない顔で続いていた。



今回も読んでいただき、ありがとうございます。

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