06 動き出した秒針
「行くのか」
鼎は霧の奥を見つめたまま呟いた。
子どものような怪異が消えた場所には、もう何もない。
静寂だけが残っていた。
五和は周囲を見渡し、小さく頷く。
「残響が残っていたなら、この先にも何か残っているかもしれない」
「……父さんの痕跡が?」
「可能性はある」
その一言だけで十分だった。
鼎は迷わず歩き出した。
霧はさらに深くなる。
さっきまで見えていた木々の輪郭も曖昧になり、距離感さえ分からなくなる。
足音だけが静かに響いた。
しばらく歩いた頃だった。
耳鳴りがした。
最初は小さかった音が、少しずつ大きくなる。
景色が揺れた。
「鼎」
五和の声が遠い。
「大丈夫だ」
そう答えた自分の声も、どこか他人のもののようだった。
まだ行ける。
ここまで来て引き返すわけにはいかない。
父は、この先へ進んだのかもしれない。
その思いだけが鼎を動かしていた。
一歩。
また一歩。
足を踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。
世界が傾く。
「鼎!」
五和が駆け寄る気配がした。
そのまま意識は闇へ沈んだ。
◇
頬を撫でる風で目を覚ます。
聞こえるのは鳥の鳴き声。
木々が揺れる音。
ゆっくり身体を起こすと、霧は消えていた。
境界はどこにもない。
見慣れた山の景色だけが広がっていた。
「……戻ったのか」
「ああ」
少し離れた場所で五和が立っていた。
「人が長く留まれる場所ではない」
静かな声だった。
鼎は空を見上げる。
青かった。
さっきまでいた場所が、本当に存在していたのか疑いたくなるほどに。
「夢だったのかな」
「そう思うなら、それでもいい」
五和は否定もしなかった。
肯定もしなかった。
鼎は目を閉じる。
ふと、一つの記憶が浮かんだ。
幼い頃。
父と二人で歩いた山道。
転ばないようにと差し出された大きな手。
疲れた鼎を笑いながら励ます声。
そうだ。
父は山が好きだった。
休日になるたび、この山へ来ていた。
俺も、何度も連れてきてもらっていた。
……本当に、ただ山が好きだったから来ていたのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
すぐに首を振った。
今はまだ、分からない。
忘れていたわけじゃない。
思い出せなかっただけなんだ。
鼎はゆっくり立ち上がる。
山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
父が見ていたものは、まだ分からない。
境界も。
怪異も。
父がなぜ姿を消したのかも。
何一つ分からない。
それでも。
今は前より少しだけ、父に近づけた気がした。
夢だったのか。現実だったのか。今でも分からない。
ただ、父が消えたあの日から、俺の中の秒針は止まったままだった。
この日を境に、それは静かに動き始めた。
今回も読んでいただき、ありがとうございます。




