境界
五和は山道の途中で足を止めた。
「ここから先が境界だ」
鼎は前を見る。
そこにあるのは、ただの山だった。
木々。
岩。
湿った土。
特別なものは何もない。
「……ここが?」
「ああ」
五和はそれだけ答えた。
鼎は少し警戒しながら、一歩踏み出す。
⸻
最初は何も感じなかった。
ただ歩いている。
風が吹く。
木々が揺れる。
しかし。
数歩進んだところで、違和感が生まれた。
鳥の声。
聞こえている。
なのに。
どこから鳴いているのか分からない。
近くにも感じる。
遠くにも感じる。
距離感が狂っている。
鼎は足を止めた。
「……変だな」
五和が振り返る。
「何が」
「音の場所が分からない」
五和は静かに答える。
「境界では珍しくない」
⸻
さらに進む。
身体が重い。
疲れているわけではない。
足は動く。
だが。
何かに引かれているような感覚がある。
空気が合わない。
ここにいること自体が、間違っている。
そんな感覚だった。
⸻
「五和」
「何だ」
「ここでは何が起きる」
五和は少し黙る。
「境界には決まりがある」
「決まり?」
「ああ」
「場所を信じるな」
「道が正しいとは限らない」
「時間を信じるな」
「長くいたつもりでも、そうとは限らない」
「記憶を信じるな」
鼎は眉をひそめる。
「記憶まで?」
五和は頷く。
「見たものと、覚えているものが違うことがある」
⸻
そして。
少し間を置く。
「最後に」
「意味を信じるな」
鼎は五和を見る。
「意味?」
五和は歩きながら言った。
「人間は、分からないものを見ると意味を与える」
「名前を付ける」
「理由を探す」
「そうすることで世界を理解してきた」
「それが悪いのか?」
鼎が聞く。
五和は首を振る。
「悪くない」
「人間には必要なことだ」
「だが」
五和は続ける。
「境界では、それが迷いになる」
⸻
「自分が見ているものではなく」
「自分が作った答えを見るからだ」
鼎は黙った。
五和は短く言う。
「意味を捨てろ」
その言葉だけが、妙に残った。
⸻
二人はさらに奥へ進む。
どれくらい歩いたのか分からない。
その時。
鼎は足を止めた。
何かがおかしい。
場所でもない。
時間でもない。
もっと近いもの。
「……」
俺は。
何をしに来たんだ。
一瞬。
頭の中が空白になる。
山へ来た理由。
ここにいる理由。
それが霧の向こうへ遠ざかる。
「……父さん」
無意識に言葉が漏れた。
そうだ。
俺は父親を探しに来た。
数秒だった。
だが。
その数秒が妙に長く感じた。
「今のは」
鼎が聞く。
五和は答える。
「境界だ」
「記憶を奪ったわけではない」
「ただ」
「大切なものの順番を、一瞬だけ狂わせる」
鼎は黙る。
理解したわけではない。
だが。
ここが普通の場所ではないことだけは分かった。
その時。
山道の脇に、小さな子どもが座っていた。
白い服。
七歳ほど。
こちらを見ている。
鼎は足を止める。
「……子ども?」
返事はない。
ただ笑っている。
鼎が近づこうとする。
「迷子かもしれない」
五和が止める。
「行くな」
「なぜ」
「交わる」
「何と」
五和は子どもを見る。
「境界にいるものと」
鼎は子どもを見る。
怖くはない。
むしろ。
寂しそうだった。
「大丈夫か」
声をかける。
子どもは鼎を見る。
「今日は違う人」
「……何?」
「前は」
少し笑う。
「お父さんだった」
鼎の表情が変わる。
「父さんを知っているのか」
子どもは首を傾げる。
「知ってる」
「でも」
「名前は知らない」
「何をしていた」
鼎が聞く。
子どもは答える。
「探してた」
「何を?」
「分からない」
少し俯く。
「でも」
「悲しそうだった」
鼎は言葉を失う。
父親が悲しむ姿なんて知らない。
いつも冷静だった。
いつも先を見ていた。
「また来るって言ってた」
子どもは言う。
「でも」
「帰れなかった」
霧が流れる。
子どもの姿が薄れていく。
「待て!」
鼎が手を伸ばす。
「お前は何なんだ!」
子どもは少し考えた。
「分からない」
「ここにいるだけ」
そして。
消えた。
⸻
静寂。
鼎は呟く。
「……何だったんだ」
五和は答える。
「分からない」
鼎は苦笑する。
「本当にそればかりだな」
五和は歩き出す。
「境界に触れたものは」
「何かを見る」
「記憶かもしれない」
「想いかもしれない」
「別の何かかもしれない」
⸻
鼎は振り返る。
そこには何もない。
ただ霧だけが残っていた。
⸻
その瞬間。
一瞬だけ、別の景色が重なった。
小さな自分。
山道。
隣にいる父親。
父親の声。
「鼎」
⸻
振り返る。
そこには幼い頃の自分がいた。
「……俺?」
景色は消える。
父親はここに来ていた。
そして。
自分も。
もしかしたら。
ここに来たことがある。
だが。
その記憶が本当に自分のものなのか。
鼎にはまだ分からなかった。
今回も読んでいただき、ありがとうございました。
次回も鼎たちの旅を見守っていただけると嬉しいです。




