67 理由
翌日。
公民館に着いてから、しばらく経った頃だった。
「鼎」
名前を呼ばれ、鼎は顔を上げた。
五和が立っている。
「はい?」
「少し時間あるか」
「ありますけど」
「来い」
それだけ言って、五和は歩いていく。
鼎はその背中を見た。
「……何だ?」
近くにいた美羽も五和の方を見る。
「さあ」
「何かした?」
「何で俺が呼ばれただけで、そうなるんだよ」
「日頃の行い」
「最近それ多くない?」
「いいから行ってきなよ」
「はいはい」
鼎は席を立った。
*
五和が向かったのは資料室だった。
扉を開けると、五和は机の前に立っている。
「閉めろ」
「はい」
鼎が扉を閉める。
「座れ」
「何ですか、急に」
「いいから座れ」
「はい」
向かいの椅子へ腰を下ろした。
五和はまだ立っている。
「五和さんは?」
「何が」
「座らないんですか」
五和は鼎を見ると、ようやく椅子を引いた。
「……お前は、こういう時でも変わらんな」
「何がです?」
「いや」
「またそれだ」
五和は答えず、椅子へ座った。
しばらく何も言わない。
鼎も待った。
昨日、自分から言った。
――今度は五和さんが決めてください。
話すかどうか。
自分が知りたいことは、もう伝えた。
だから今日は、鼎から聞くつもりはなかった。
やがて、五和が口を開いた。
「昨日の話だ」
「……はい」
「お前の父親について」
鼎の表情が変わった。
それでも、黙って待つ。
「話す」
短い言葉だった。
だが、それだけで意味は分かった。
昨日までとは違う。
鼎が聞き出したわけではない。
五和が、自分で決めたのだ。
「いいんですか」
「ああ」
「無理してないです?」
「お前がそれを聞くのか」
「聞きますよ」
「だったら呼ばん」
「……そっか」
鼎は背もたれから身体を起こした。
「分かりました」
五和が一度、息を吐く。
「最初に言っておく」
「はい」
「俺も、あの人の全部を知っているわけじゃない」
鼎は頷いた。
「だから、俺が知っていることだけ話す」
「……はい」
五和は少しだけ視線を落とした。
「あの人には、救われたことがある」
鼎は何も言わなかった。
予想していなかった。
五和が父親を知っていたことは、もう分かっている。
同じ場所で調査をしていたことも。
ただの調査仲間ではなかったのだろうということも。
それでも、五和自身の口から父親とのことを聞くのは初めてだった。
「救われたって……」
鼎はそこで言葉を止めた。
「何があったんですか」
「今は話さない」
「……そこは話さないんだ」
「ああ」
「話すって言ったのに」
「全部話すとは言ってない」
「やっぱり面倒くさいなあ」
「帰るか?」
「帰りません」
即答した。
五和が僅かに息を吐く。
「でも」
鼎は続けた。
「それなら、それでいいです」
五和が顔を上げる。
「話せるところまでで」
「……ああ」
以前なら、そこで食い下がっていたかもしれない。
なぜ話せないのか。
いつなら話せるのか。
何があったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
だが今は、それを五和へぶつけなかった。
話すと決めたのは五和だ。
なら、どこまで話すのかも今は五和に任せようと思った。
「あの人がいなければ」
五和が言う。
「今の俺はいなかったかもしれん」
鼎は黙って聞いた。
「それくらいのことだ」
「……父さんが」
「ああ」
家にいた父親。
自分にとっては、それが当たり前だった。
けれど、自分の知らない場所で父親は五和の人生にも関わっていた。
写真の中に並んでいた二人が、少しだけ違って見えた。
「五和さんにとって」
鼎は尋ねる。
「父さんって、結構大きな存在だったんですね」
五和はすぐには答えなかった。
「ああ」
短い返事だった。
それ以上は聞かなかった。
*
「前にも話したが」
少しして、五和が続けた。
「お前の父親は、最初から何かを探していたわけじゃない」
「覚えてます」
「最初は、境界そのものを知ろうとしていた」
鼎は頷く。
それは以前、五和から聞いた。
父親は知りたがり、疑い、納得するまで調べる人間だった。
分からないものを、分からないまま見ていられる人でもあった。
そこは、鼎の知っている父親とも繋がっている。
「ただ」
五和の声が少し変わった。
「途中から、変わった」
「父さんが?」
「調べ方が、だ」
鼎は黙る。
「境界について知ろうとしていた。それ自体は変わらない」
「じゃあ、何が?」
「見ているものだ」
「……見ているもの?」
「ああ」
五和は言葉を選ぶように続けた。
「以前は、境界そのものを追っていた」
「はい」
「記録を集め、現象を調べ、何が起きているのかを考える」
そこまでは、今の自分たちがしていることと変わらない。
「だが、ある時期から、それだけじゃなくなった」
「何を調べてたんです?」
五和はすぐには答えなかった。
「分からん」
鼎が僅かに眉を寄せる。
「五和さんにも?」
「ああ」
「父さんから聞かなかったんですか」
「聞いた」
「何て?」
「答えなかった」
鼎は思わず息を吐いた。
「……何か、似たようなことしてますね」
「誰と誰が」
「五和さんと父さん」
「一緒にするな」
「いや、今の話だけ聞いたら結構似てますよ」
「うるさい」
鼎は少し笑った。
五和も否定はしたが、それ以上は何も言わなかった。
そのやり取りが、少しだけ不思議だった。
父親がいなくなってから、こんなふうに誰かと父親のことを話した記憶はほとんどない。
それも、自分の知らない父親を知っている人間と。
「じゃあ五和さんも」
鼎は改めて聞いた。
「分からないままだったんですね」
「ああ」
「父さんが、何を調べ始めたのか」
「その時はな」
鼎の目が止まった。
「……その時は?」
五和は何も言わない。
ほんの僅かな沈黙だった。
「今は」
鼎は五和を見る。
「分かってるんですか」
「全部じゃない」
「でも、何かは分かった?」
「ああ」
鼎は続きを待った。
五和も、鼎が待っていることに気づいている。
それでも。
「今日は、ここまでだ」
鼎の眉が動いた。
「……ここで?」
「ああ」
「めちゃくちゃ気になるところで切りましたよね」
「分かってる」
「わざとですか」
「違う」
「じゃあ続き」
「まだ話せない」
その言葉を聞いて、鼎は黙った。
話せない。
以前と同じ言葉だった。
けれど今日は、同じには聞こえなかった。
五和は自分から鼎を呼んだ。
自分から父親について話した。
分からないことは、分からないと言った。
そして、話せないところでは話せないと言った。
何も話さないことと、話せるところまで話してそこで止まることは、同じではない。
「……分かりました」
五和が僅かに目を細める。
「いいのか」
「よくはないですよ」
「……」
「めちゃくちゃ気になるし」
「ああ」
「でも」
鼎は五和を見る。
「今日は、五和さんから話してくれたから」
五和は何も言わなかった。
「それで十分……とは言わないですけど」
「言わんのか」
「そこまで物分かりよくないです」
「そうだな」
「でも」
鼎は少し笑った。
「昨日よりは進んだでしょ」
「ああ」
「じゃあ今日は、それでいいです」
鼎は椅子から立った。
扉へ向かい、手を掛ける。
「鼎」
「はい」
振り返る。
五和は少し迷ったように見えた。
「お前の父親は」
鼎は待つ。
「あの人は、途中で境界を追うのをやめたわけじゃない」
「……?」
「ただ」
五和は続けた。
「境界を追う理由が、変わった」
鼎は五和を見る。
「理由……」
「ああ」
それ以上、五和は言わなかった。
鼎も聞かなかった。
「……分かりました」
資料室を出る。
扉を閉めた後も、その言葉だけが頭に残っていた。
境界を追う理由が変わった。
何から。
何へ。
まだ分からない。
ただ。
昨日まで知らなかったことが、今日は一つ増えた。




