61 父の部屋
部屋へ入ってからも、鼎はしばらく入口の近くに立っていた。
昨日まで、扉の向こうだった場所。
一歩入ってしまえば、何かが変わるわけでもない。
父親の部屋は、ただそこにあった。
「……」
ゆっくり中を見る。
机。
椅子。
本棚。
壁に掛けられた上着。
どれも見覚えがある。
子供の頃、勝手に本棚を漁って怒られたことがあった。
難しそうな本ばかりで、何が面白いのかと聞いた。
父親は笑っていた。
――分からないから面白いんだ。
当時は、意味が分からなかった。
「……ちょっと分かるのが嫌だな」
鼎は苦笑した。
*
本棚の前へ立つ。
山岳関係。
民俗学。
地域史。
古い地図。
知らない土地について書かれた本も多い。
昔は、ただの趣味だと思っていた。
山が好きで、昔話が好きで、変なものを調べるのが好きな人。
けれど今見ると、少し違って見える。
「こんなにあったんだな」
一冊を抜く。
地方の伝承をまとめた古い本。
何ヶ所かに付箋が残っている。
別の本にも。
その隣にも。
全部が境界に関係しているのかは分からない。
だから、そこまでは決めない。
ただ。
父親が長い間、色々なものを調べていた。
それだけは分かった。
鼎は本を戻した。
*
机の前に立つ。
椅子を引いてから、少しだけ躊躇った。
ここに父親が座っていた。
ノートを書いていたのも、たぶんこの机だった。
「……」
鼎は椅子へ座った。
引き出しを開ける。
筆記具。
古い手帳。
領収書。
何に使ったのか分からない鍵。
「こういうの一番困るんだよな……」
捨てていいのかも分からない。
鍵を戻す。
二段目。
保険関係の封筒。
保証書。
何年前かも分からないレシート。
「……現実的だなあ」
少しだけ拍子抜けした。
父親だって生活していた。
買い物をして。
保証書を取っておく。
当たり前のこと。
境界を調べていた人間も、家へ帰ればこういうものを引き出しにしまっていた。
その当たり前が、今は妙に胸に残った。
*
最後の引き出し。
いくつかの封筒。
古い写真。
「……写真?」
家族のアルバムとは違う。
何枚か取り出す。
山。
湖。
知らない集落。
石碑。
祠。
父親が撮ったものらしい。
若い頃の父親が写っている写真もあった。
「若っ」
思わず声が出る。
今の自分と、それほど変わらない年齢かもしれない。
「髪型……」
鼎は少し笑った。
本人がいたら、たぶん怒られる。
一枚ずつ見ていく。
知らない人と写っている父親。
山の前で笑っている父親。
地図を持っている写真。
どれも、自分の知らない時間だった。
父親にも、自分が生まれる前があった。
当たり前なのに、初めて見るような気がした。
そして。
一枚をめくった時、鼎の指が止まった。
「……え?」
父親がいる。
若い。
その隣に、背の高い男。
無愛想な顔。
今より少し若い。
それでも、間違えるはずがない。
「……五和さん?」
写真を近づける。
見る。
もう一度。
「いや……」
角度を変える。
「五和さんだな」
どう見ても五和だった。
二人の後ろには山。
父親は何かを手にしている。
五和の横には荷物が置かれていた。
鼎は写真を裏返す。
日付だけ。
それ以外は何もない。
「……」
五和は言っていた。
父親とは、調査仲間だった。
嘘だと思っていたわけじゃない。
でも。
言葉で聞くのと、こうして目の前に残っているものを見るのとでは違った。
父親の時間の中に、本当に五和がいた。
自分が知らなかった頃から。
「……何してたんだよ」
父親へなのか。
五和へなのか。
自分でも分からない。
鼎は写真を見る。
知らなかった父親。
少し前なら、それを見るのが怖かったのかもしれない。
今は、それより知りたかった。
鼎は写真を持ったまま、父親の机に座っていた。
窓の外では、いつの間にか日が暮れ始めている。
写真の中で。
父親と五和が、同じ場所に立っていた。




