49 千永花
小さな芽だった。
土の隙間から、ほんの僅かに緑が覗いている。
誰も動かなかった。
葵はしゃがみ込む。
けれど、触れない。
ただ見ていた。
「……これが」
言いかけて、やめた。
千永花。
そう呼びたかった。
けれど、まだ何の花なのかも分からない。
五和が時計を見る。
「時刻」
凪が記録する。
「十六時四十二分」
「周囲は?」
「変化ありません」
鼎もしゃがみ込んだ。
「普通の芽にしか見えないな」
「普通って何よ」
「いや、普通は普通だろ」
「何の芽かも分からないのに?」
「そう言われると……」
葵が少しだけ笑う。
「適当」
「うるさい」
その時だった。
風が止まった。
「……」
鼎が顔を上げる。
さっきまで聞こえていた声が消えている。
――残したい。
――忘れないで。
――この景色を。
――次へ。
もう何も聞こえない。
「五和さん」
「ああ」
静かだった。
山の中とは思えないほどに。
そして、葵が息を呑んだ。
「……動いた」
「え?」
「芽」
四人が見る。
小さな緑の先が、ほんの少し伸びていた。
目の前で、茎が伸びていく。
ゆっくりと。
けれど、確かに。
その先に、小さな蕾が現れる。
凪だけが記録を続けていた。
「十六時四十四分。蕾を確認」
葵は動けなかった。
ずっと探していた。
祖母が追っていたもの。
幼い頃、自分なら見つけられると思っていたもの。
それが今、目の前にある。
「……咲く」
蕾が開き始めた。
一枚。
また一枚。
花弁が開いていく。
そして。
一輪の花が咲いた。
*
「……」
葵は何も言えなかった。
赤い。
深い赤。
大きく開いた花弁。
幼い頃に見た、どの絵とも違う。
それでも、葵にはそれが千永花なのだと思えた。
「千永花……」
初めて、その名前を口にした。
鼎が隣で花を見ている。
「……黄色」
葵が振り向く。
「え?」
「俺には黄色に見える」
葵は花を見る。
赤い。
どう見ても赤い。
「私は白です」
凪が言った。
「白?」
「はい」
「五和さんは?」
「青だ」
葵は言葉を失った。
四人が同じ場所にいる。
同じ時間に、同じ一輪の花を見ている。
それなのに、違う。
「記録します」
凪が言った。
「色だけでなく、形も」
四人はそれぞれ、見えているものを書いた。
葵。
赤。
大きく開いた花。
鼎。
淡い黄色。
細い花弁。
凪。
白。
小さく、丸い花弁。
五和。
青。
横へ広がる細長い花弁。
どれも違っていた。
「……昔の記録と同じ」
葵が呟く。
祖母の部屋。
机いっぱいに並んだ花。
大きな花。
小さな花。
細い花。
丸い花。
――だって、全然違うじゃん。
――どれが本物なの?
幼い自分の声が蘇る。
見つけた。
本物を。
ずっと、そう思っていた。
本物さえ見つければ、どれが正しいのか分かる。
なのに。
「……分かんない」
「松本?」
「見つけたのに」
葵は少しだけ笑った。
「全然、分かんない」
鼎は何も言わなかった。
「私には赤く見える」
「うん」
「千曲には黄色」
「ああ」
「凪さんには白で、五和さんには青」
葵は花を見る。
「じゃあ、本物は何色なの?」
誰も答えなかった。
風が吹く。
千永花が揺れた。
「……おばあちゃん」
――分からないから、調べてるんだよ。
昔は、変な答えだと思っていた。
分からないなら、調べれば分かる。
見つければ分かる。
答えはどこかにある。
そう思っていた。
でも今、少しだけ分かった気がした。
「……そっか」
「何が?」
鼎が尋ねる。
葵は首を振る。
「何でもない」
「またそれかよ」
「いいでしょ」
葵は笑った。
今度は、少しだけいつもの笑い方だった。
*
凪は花の周囲を確認していた。
「神原さん」
「ああ」
「境界の状態が変化しています」
「声も聞こえない」
葵が言った。
「はい。開花と同時に反応が弱くなった可能性があります」
鼎は千永花を見る。
「ここに残ってたものと、関係あるんですかね」
五和も花を見る。
「分からん」
それだけだった。
葵は千永花を見つめた。
人々の希望が集うとき、千永花は咲く。
そう伝わっていた。
でも、ここに残っていたのは希望だけではなかった。
それでも、長い時間の中で残されたものの先に、一輪の花が咲いている。
「千永花……」
葵がもう一度、その名前を呼んだ。
今度は、最初とは少し違って聞こえた。
*
凪が時計を見る。
「十六時四十九分」
「五分?」
「開花から、およそ五分です」
その時。
花弁が一枚、落ちた。
「……え」
さらに一枚。
「待って」
花が萎み始めている。
「もう?」
葵がしゃがみ込む。
「まだ……」
手を伸ばしかける。
「松本」
五和の声。
葵の手が止まる。
触れない。
ただ見る。
一枚。
また一枚。
花弁が落ちる。
赤い花が、少しずつ小さくなっていく。
葵は何もできなかった。
ずっと探していた。
やっと見つけた。
それなのに、千永花は待ってはくれなかった。
最後の花弁が落ちる。
残った茎も、ゆっくりと倒れた。
静かだった。
「……終わり?」
凪が時計を見る。
「十六時五十分」
六分。
千永花は、六分だけ咲いていた。
葵は何もなくなった場所を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……そりゃ見つからないわ」
鼎が隣に立つ。
「六分じゃな」
「おばあちゃん、運悪すぎ」
「それ本人に言う?」
「聞こえないからいいの」
「そういう問題か?」
葵は少しだけ笑った。
そして、もう一度、花が咲いていた場所を見る。
「でも」
声が変わる。
「見つけた」
「ああ」
「ちゃんと」
「ああ」
葵は頷いた。
「……うん」
それだけで、よかった。




