47 声の先
翌朝。
四人は再び山へ向かっていた。
昨日と同じ集落。
同じ山。
けれど、鼎には少し違って見えた。
昨日までは、千永花を探すために来た場所だった。
今はその花よりも先に、気になるものがある。
「誰の願いが、届いたのか……か」
「何?」
隣を歩く葵が振り向く。
「昨日から、ずっと考えてた」
「珍しい」
「俺だって考えるわ」
葵は少しだけ笑った。
「松本はどう思う?」
「何が?」
「願いって、記録だけ残るのかなって」
葵は手にした祖母のファイルを見る。
「分からない」
「だよな」
「だから調べるんでしょ」
鼎が葵を見る。
「それ、俺が言おうと思った」
「遅い」
*
昨日見つけた集落跡へ戻る。
石垣。
井戸の跡。
水に削られた斜面。
何も変わっていない。
凪が位置を確認する。
「問題ありません」
五和は周囲を見渡した。
「歩くぞ」
「何を探すんですか?」
「昨日は見てないものだ」
「そんなの分かるんですか?」
「探さなきゃ分からん」
「分かるような、分からないような……」
「慣れなさいよ」
葵が横を通り過ぎる。
鼎もその後を追った。
集落跡の奥へ進み、井戸や石垣、崩れた家の土台を越えていく。
しばらくして、五和が足を止めた。
「ここだ」
「何が?」
鼎が周囲を見る。
草。
木。
崩れた石垣。
昨日と変わらない。
五和は地面を見ていた。
「境界が近い」
鼎の表情が変わる。
「ここに?」
「ああ」
葵も周囲を見る。
「昨日は何もなかったけど」
「昨日は探してない」
「じゃあ、なんでここだと?」
「痕跡がある」
五和が歩き出す。
「見に行くぞ」
*
最初に変化に気づいたのは鼎だった。
「……あれ?」
後ろを見る。
歩いてきた道に、おかしなところはない。
「今、水の音しなかった?」
三人が足を止める。
耳を澄ます。
風。
葉が擦れる音。
遠くの鳥の声。
「聞こえないけど」
葵が答える。
「気のせいかな」
再び歩く。
数歩進んだところで、また聞こえた。
――水。
今度は確かだった。
「五和さん」
「ああ」
五和も止まっている。
「聞こえます?」
「聞こえる」
「私にも」
凪も周囲を見る。
葵だけが眉を寄せた。
「……私は聞こえない」
三人が葵を見る。
「何よ」
「いや」
鼎はもう一度、音のする方を見る。
「また、違ってるのかなって」
葵は耳を澄ませた。
「……やっぱり聞こえない」
五和が歩き出す。
「行くぞ」
*
進むほど、水の音は大きくなった。
鼎には、すぐ近くを川が流れているように聞こえる。
だが、どこにも水はない。
地面も乾いている。
突然。
音が消えた。
「……」
静かだった。
鳥の声まで消えている。
「止まれ」
五和の声に、四人が足を止める。
風もない。
葉も動かない。
昨日まで何度も歩いた山の中なのに、ここだけが切り離されたように静かだった。
凪が時計を見る。
「時刻を記録します」
葵が小さく息を吐いた。
「……ここ?」
「ああ」
「境界?」
「ああ」
鼎は周囲を見る。
何もない。
鳥居も、扉も、霧もない。
ただ山の中に、見えない境目だけがある。
*
五和を先頭に、四人は進んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
景色は変わらない。
けれど、空気だけが少し重くなったような気がした。
その時。
声がした。
――降ってくれ。
鼎が振り向く。
「今……」
「聞こえた?」
葵だった。
「お前も?」
葵が頷く。
また声がする。
――もう駄目だ。
違う声。
――このままじゃ、畑が。
――雨を。
遠くから、いくつもの声が重なって聞こえてくる。
鼎は周囲を見る。
誰もいない。
木々しかない。
それなのに、声だけが残っている。
「これ……昔の?」
「決めるな」
五和が言う。
「聞こえたものだけ覚えろ」
「……はい」
四人は進む。
声が増えていく。
――降って。
――お願い。
――水を。
――助けて。
人はこんなにも願っていた。
雨が降ることを。
生きることを。
明日が来ることを。
その中に、別の声が混じった。
――やめて。
鼎の顔が上がる。
――もう降らないで。
――川が。
――逃げろ。
――水が来る。
鼎は動けなかった。
雨を願う声。
雨を止めてほしいと願う声。
正反対の願いが、同じ場所に残っている。
「……これ」
葵が呟く。
さっきまで聞こえなかったはずの水音が、今は葵にも聞こえていた。
激しい水の音。
いくつもの声。
――降って。
――やめて。
――助けて。
――止んで。
――お願い。
どちらも、願いだった。
*
「五和さん」
鼎が言った。
「境界って、人の願いを残すんですか?」
少しの沈黙。
「分からん」
五和は答えた。
「ただ」
周囲に響く声を聞く。
「ここには残ってる」
鼎は黙って頷いた。
*
葵は、一人だけ別の方向を見ていた。
「松本?」
「……待って」
雨を願う声。
雨を止めてほしいと願う声。
その奥に、もっと遠い何かが混じっている。
「聞こえる」
「何が?」
葵は目を閉じた。
微かに。
本当に微かに。
誰かの声。
――この先も。
葵が目を開ける。
また聞こえる。
――残りますように。
「……え?」
雨とは違う。
もっと新しい。
けれど、今の声でもない。
「こっち」
葵が歩き出す。
「おい、待て!」
鼎が追う。
「何が聞こえるんだよ!」
「分かんない!」
「分かんないのに行くなよ!」
「だから確かめるんでしょ!」
「それ俺がさっき言おうとしたやつ!」
葵は止まらない。
五和と凪も後を追う。
木々の間を抜けるにつれ、雨を巡る声が少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、別の願いが聞こえてくる。
――残したい。
――ここを。
――この景色を。
――次へ。
葵の足が止まった。
目の前。
木々の間に、細い道が続いている。
祖母の地図にはない道だった。
「……こんなの」
葵が地図を見る。
「載ってない」
鼎も道を見る。
「間違えた?」
「違う」
「なんで分かるんだよ」
「分かる」
声は、その先から聞こえている。
五和が道を見る。
そして、短く言った。
「行くぞ」
葵が顔を上げる。
「いいの?」
「ああ」
「何があるか分からないですよ」
鼎が言う。
「だから行く」
「……今日はそればっかりだな」
誰も笑わなかった。
四人は、地図にない道へ入った。




