46 誰の願い
石碑の調査を終えた頃には、日が少し傾き始めていた。
四人は集落跡をさらに奥へ進んでいた。
道はない。
草をかき分け、崩れた石垣を越えていく。
「本当にこっちで合ってる?」
「たぶん」
葵は祖母の地図を見ながら答えた。
「たぶん?」
「昔の地図なの」
「いや、分かってるけど」
「じゃあ聞かないで」
その横で、凪が足を止めた。
「待ってください」
三人が振り返る。
凪は地面を見ていた。
「水の跡があります」
「水?」
斜面の土が大きく削れている。
草木に覆われていて分かりづらいが、周囲とは明らかに地形が違っていた。
「川?」
「今は流れていません」
凪が周囲を確認する。
「昔の流路かもしれません」
五和が斜面を見上げた。
「上を見るぞ」
*
木々の間から、大きく崩れた場所が現れた。
土と石。
倒れた木。
その先には、崩れた石垣が続いている。
「……ここも?」
「家があったんでしょうね」
凪が答えた。
葵は祖母のファイルを開いた。
「ここ……」
一枚の古いメモを取り出し、薄くなった文字を追う。
「『長く雨降らず、田畑枯れる』……」
凪も横から確認する。
「その下は、『皆、天を仰ぎ』でしょうか」
「願った?」
鼎が聞く。
葵が続きを読む。
「『雨を願った』」
四人が黙った。
老婆から聞いた話と同じだった。
雨が降らず、田畑が枯れ、人々は雨を願った。
葵が紙をめくる。
「その後、雨が降った」
「助かった側ですね」
凪が言う。
鼎は目の前の崩れた土地を見る。
ここにも人が暮らしていた。
だが、今は崩れた石垣しか残っていない。
「じゃあ、ここは?」
誰も答えなかった。
*
さらに奥へ進むと、崩れた石垣の近くに小さな石碑が残っていた。
ほとんどの文字は読めない。
それでも、一部だけは残っている。
「……水」
鼎が表面の土を払う。
「流れ……家……」
凪が記録する。
「『水流れ、家――』」
その先は欠けていた。
鼎は石碑を見る。
雨を願った人たちがいた。
そして、雨は降った。
だが、その向こう側では水が流れ、家が――。
「さっきのおばあさんが言ってた『こっちはね』って」
鼎が呟く。
「こういうことだったのかな」
「決めるな」
五和が答えた。
「でも、かなり繋がってません?」
「繋がって見えることと、事実は別だ」
鼎は口を閉じた。
まだ読めない文字もある。
残っていない記録もある。
今あるものだけで答えを出すには、足りない。
*
集落跡を出る途中。
葵が突然、足を止めた。
「待って」
祖母のファイルを開き、何枚かの紙を見比べる。
「……これ」
古い記録を書き写したと思われる文章だった。
「『雨来たりて、田畑蘇る』」
その下。
「『人々、これを天の恵みと喜ぶ』」
「こっち側の記録か」
鼎が言った。
「たぶん」
さらに、小さく文字が続いている。
「『願い、届きたり』」
雨を願った。
雨が降った。
作物が助かった。
確かに、願いは届いたように見える。
凪が紙の下を指した。
「松本さん。そこにも何か」
記録を書き写した文章とは違う。
祖母の筆跡だった。
短い一文。
葵がゆっくり読む。
「――誰の願いが、届いたのか」
風が吹いた。
色づき始めた葉が揺れ、葵の手にある紙が小さく震えた。
誰も言葉を発しなかった。
*
四人は山を下りた。
鼎はずっと、その言葉を考えていた。
――誰の願いが、届いたのか。
「誰かの願いが叶ったら」
鼎が口を開く。
「別の誰かが不幸になるってことですか?」
「違う」
五和が即答した。
「そういう決まりがあるわけじゃない」
「じゃあ……」
「雨が降れば、救われる場所もある」
五和は崩れた集落跡を振り返る。
「困る場所もある」
鼎も振り返った。
同じ雨だった。
片方では田畑を蘇らせ、もう片方では何かを失わせたのかもしれない。
「願った人たちは、悪くないですよね」
「誰も悪いなんて言ってない」
葵が答えた。
「雨が欲しかっただけでしょ」
「うん」
鼎はもう一度、山を振り返った。
雨を願った人たちがいた。
雨は降った。
それで助かった人もいた。
その同じ雨で、何かを失った人もいたのかもしれない。
葵は祖母のファイルを見る。
その中に残された、遠い昔の願い。
――人々の希望が集うとき、千永花は咲く。
幼い頃に聞いた言葉が、今までとは少し違って聞こえた。
「……五和さん」
鼎が山を見る。
「これって」
「ああ」
五和は短く答えた。
「調べる価値はある」
千永花だけを追っていたはずの調査が、少しずつ人々が残した願いへと繋がり始めていた。




