39 残された記録
公民館へ戻る頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
車内では、誰も口を開かなかった。
山で見た景色が、それぞれの中に残っている。
辰野は車を降りると、一度だけ山の方を振り返った。
あの田んぼ道も。
木陰に立っていた青年も。
ここからは見えない。
*
朝日は机の上へ資料を広げた。
古い地図。
観測記録。
村史の写し。
その中から、一枚の紙を取り出す。
端が破れ、長い年月で黄ばんだ古い記録だった。
「これだけ残ってた」
朝日が机へ置く。
鼎と辰野が覗き込んだ。
文字は滲み、ほとんど読めない。
それでも、いくつかの文字だけは残っていた。
──家を守るため。
──一人を残す。
──……
その先は判読できない。
「これだけ……?」
「これだけ」
朝日は短く答えた。
「残っていたのは」
部屋が静かになった。
*
辰野は紙を見つめていた。
「……一人を残す」
その言葉に、木陰の青年が重なる。
しばらくして、辰野が口を開いた。
「親父が……」
三人が顔を向ける。
「昔、一回だけ言ってた気がする」
辰野は遠い記憶を探るように目を伏せた。
*
まだ、子どもの頃だった。
親戚の家から帰る途中。
父親と二人で、田んぼ道を歩いていた。
何の話をしていたのかは覚えていない。
ただ。
父親が田んぼの向こうを見ながら、ぽつりと言った。
『長男は家を守る』
幼い辰野には、その意味が分からなかった。
『じゃあ、次男は?』
そう聞いた気がする。
父親が何と答えたのか。
覚えていない。
いや。
答えたのかどうかさえ、思い出せなかった。
*
「そこまでしか覚えてない」
辰野は静かに言った。
「今まで、思い出したこともなかった」
朝日も五和も、何も言わない。
辰野は再び紙へ目を落とした。
──家を守るため。
──一人を残す。
しばらく、その文字を見つめていた。
「……なんだったんだろうな」
誰に聞くでもなく呟いた。
答える者はいなかった。
窓の外では、夕暮れが山並みを赤く染めていた。
*
気付けば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
夕焼けは消え、山の上には無数の星が浮かんでいる。
街の灯りから離れた村の夜空は、驚くほど深かった。
辰野は窓辺に立ち、しばらく空を見上げていた。
子どもの頃にも、何度も見たはずの空。
ふと、木陰に立っていた青年が浮かぶ。
誰にも声を掛けられず。
祝いの輪にも加わらず。
ただ一人、花嫁行列を見送っていた。
――あの人も。
この星を眺めていたのだろうか。
同じ村で。
同じ山に囲まれて。
自分が生まれるより、ずっと昔。
名前は知らない。
何を思っていたのかも分からない。
それでも。
確かに、ここにいた。
辰野は星空を見つめ続けた。
知らなかったはずの故郷の過去が。
今は少しだけ、近くにあるような気がした。




