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38 忘れられた名
田んぼ道には、もう誰もいなかった。
風に揺れる稲だけが、静かに音を立てている。
太鼓も。
笛も。
もう聞こえない。
鼎は何も言えなかった。
隣では、辰野がまだ木陰を見つめている。
朝日も黙ったまま、青年が立っていた場所から目を離さなかった。
*
五和が静かに木へ歩み寄った。
幹へそっと手を添え、深く刻まれた樹皮を指先でなぞる。
長い沈黙。
やがて、小さく息を吐いた。
「……残っていたか」
それだけだった。
誰も尋ねない。
辰野は五和ではなく、その手が触れている木を見ていた。
青年が立っていた場所。
そこにはもう、誰もいない。
*
風が吹いた。
稲穂が大きく揺れる。
鼎はもう一度、木陰へ目を向けた。
その時だった。
青年が立っていた場所へ、白い花びらが一枚、ふわりと舞い落ちた。
「……」
花びらは風にさらわれ、田んぼ道の向こうへ消えていく。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
ただ、その一枚だけが。
さっきまでそこにあった景色を、静かに残していた。




