36 交わらない声
老人の姿が木々の向こうへ消えた。
四人は、その後を追うように山道を歩いていた。
誰も口を開かない。
落ち葉を踏む音だけが、静かな山に響いている。
辰野は何度か、老人が消えた方向へ目を向けていた。
思わず呼び止めた。
理由は分からない。
それでも、あの老人の姿が頭から離れなかった。
*
しばらく歩くと、道が開けた。
小さな空き地だった。
建物はない。
草木の間に、古い石垣だけが残されている。
かつて、ここにも家があったのだろう。
辰野が足を止めた。
「……ここ」
石垣を見つめる。
何かを探すように視線を動かしたが、何も言わなかった。
その時。
――カン。
乾いた音が響いた。
鼎が顔を上げる。
もう一度。
――カン。
石垣の向こうに、小さな家が建っていた。
*
囲炉裏から細い煙が立ち上っている。
庭では老人が薪を割っていた。
先ほどの老人だ。
――カン。
斧が薪へ落ちる。
縁側には、一人の若者が座っていた。
二十歳にも届かないくらいだろうか。
ぼんやりと空を見つめている。
家の中から人の声がする。
庭を誰かが横切っていく。
老人は黙々と薪を割っている。
その中で。
若者に声を掛ける者だけがいなかった。
若者も、誰にも声を掛けない。
同じ家にいる。
同じ場所で暮らしている。
それなのに。
一人だけ、そこから切り離されているように見えた。
辰野は若者を見つめていた。
その横顔から目を離そうとしない。
――カン。
薪を割る音が響く。
景色が揺らいだ。
家が薄れる。
老人の姿が消える。
最後まで縁側に残っていた若者も、静かに消えていった。
古い石垣だけが残った。
*
風が吹いた。
誰もいない空き地で、草木が揺れる。
その中に、微かに人の声が混じった。
男の声。
女の声。
いくつもの声が重なっている。
鼎は耳を澄ませた。
その中に、一つだけ。
周りから浮いた声があった。
誰かに向かって、何かを話している。
けれど。
返事はない。
声だけが続いている。
一人で。
誰にも届かないまま。
辰野が一歩踏み出した。
声が止まった。
辰野も足を止める。
あとには、風の音だけが残った。
*
五和が山の奥へ顔を向けた。
ほぼ同時に、辰野もそちらを見る。
「……鼎」
木々の間に、老人が立っていた。
その隣に。
若者がいる。
縁側に座っていた、あの若者だった。
二人とも、こちらを見ている。
辰野の視線が、老人から若者へ移る。
若者も辰野を見ていた。
一歩。
辰野が前へ出る。
鼎は声を掛けなかった。
その時。
山の奥から笛の音が聞こえた。
細く、長い音が木々の間を抜けていく。
老人の姿が薄れる。
続いて、若者も。
二人は木漏れ日の中へ溶けるように消えていった。
辰野は、その場所を見つめたまま動かなかった。
誰も追わない。
笛の音も、やがて遠ざかっていった。
あとに残ったのは。
風の音と。
誰にも届かなかった声の余韻だけだった。
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