35 こちらを見るもの
広場は静まり返っていた。
さっきまで聞こえていた人々の声も、足音もない。
残っているのは、崩れかけた井戸や石垣だけだった。
鼎は広場の中央へ歩いていく。
あれだけの人がいた。
確かに見た。
それなのに、今はその痕跡すらない。
風が吹いた。
どこからか、煮炊きをするような匂いが流れてくる。
「……料理?」
鼎は辺りを見回した。
誰もいない。
それでも、匂いだけは確かに残っている。
辰野は何も言わず、井戸へ近づいた。
そっと縁に手を置く。
「冷たい……」
その瞬間。
景色が揺らいだ。
崩れていた石垣が元の形へ戻っていく。
草に覆われていた地面が整い、井戸の周りに人の姿が現れた。
水を汲む女。
桶を運ぶ少年。
井戸端で話す老人。
誰かが笑い、それにつられて別の誰かも笑う。
何気ない日常だった。
かつて、この場所にあった暮らし。
鼎はその光景を見つめた。
人々はすぐ近くにいる。
手を伸ばせば届きそうな距離を歩いている。
それでも。
誰一人、鼎たちには気づかない。
「辰野?」
返事がなかった。
辰野は、一人の老人を目で追っていた。
初めて見るはずの人だった。
それなのに、視線を逸らそうとしない。
老人が井戸から離れていく。
辰野の目も、その背中を追う。
やがて、人々の姿が薄れ始めた。
話し声が遠ざかる。
整っていた石垣が崩れ、井戸も元の古びた姿へ戻っていく。
煮炊きの匂いも消えた。
それでも辰野の手は、しばらく井戸の縁から離れなかった。
五和は少し離れたところから、その様子を見ていた。
*
広場に、静寂が戻った。
鼎はもう一度、井戸を見る。
さっきまで人がいた。
笑っていた。
水を汲み、話をしていた。
今は風が草を揺らしているだけだった。
その時。
広場の奥。
山道へ続く細い坂道の先に、人影があった。
「……」
鼎は目を細めた。
一人の老人が立っている。
さっき、井戸のそばにいた老人だった。
鼎は息を止めた。
老人が、こちらを見ている。
井戸の周りにいた人々は、誰一人として鼎たちに気づかなかった。
だが、老人の視線は確かにこちらへ向けられている。
そして。
ゆっくりと動いた視線が、辰野で止まった。
「……」
辰野の表情が変わる。
驚いたわけでもない。
怯えたわけでもない。
ただ、何かを確かめるように老人を見つめ返している。
老人が背を向けた。
山の奥へ向かって、ゆっくりと歩き始める。
「待っ――」
辰野の口から声が漏れた。
その声に、自分自身が驚いたようだった。
老人は足を止めない。
一度も振り返らず、木々の向こうへ消えていった。
静寂が戻る。
辰野は、老人が消えた場所を見つめたまま動かなかった。
なぜ呼び止めたのか。
その理由を尋ねる者はいない。
五和も同じ場所を見ていた。
しばらくして、歩き出す。
「行くぞ」
三人も、その後を追った。
山の奥から、風に混じって何かが聞こえた。
細く、遠い音。
笛の音だった。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
次回から完結まで、1日1話更新となります。




