33 残されたもの
公民館を出ると、山の風が静かに村を吹き抜けていた。
辰野は落ち着かない様子で辺りを見渡している。
「……違う」
ぽつりと呟く。
「何が?」
「俺の知ってる村じゃない」
道は同じ。
山も同じ。
家並みも変わらない。
それでも何かが違う。
辰野自身、それを説明できなかった。
知っている景色の中へ、知らない何かだけが紛れ込んでいる。
そんな感覚だった。
⸻
一本道を進む。
古びた石碑が道端に立っていた。
苔に覆われ、刻まれた文字はほとんど読めない。
鼎は足を止めた。
――コン。
乾いた音がした。
木を叩いたような、小さな音。
辺りを見回す。
誰もいない。
風が木々を揺らしているだけだった。
「どうしたの?」
朝日が振り返る。
「今、音が……」
朝日は石碑を見る。
それだけだった。
「行くわよ」
鼎はもう一度石碑を見る。
何も変わらない。
気のせいだったのかもしれない。
そう思い、歩き出した。
⸻
しばらく進む。
今度は辰野が立ち止まった。
一軒の古い民家を見つめている。
「ここ……」
鼎も足を止める。
「知ってるの?」
「ああ」
辰野は頷いた。
「でも、違う」
表札を見る。
見覚えのない名字だった。
「この家じゃない」
辰野は小さく首を振る。
「この場所には、別の家があった」
「覚えてるのか?」
「……たぶん」
言い切ったあとで、自分の言葉に迷う。
門の位置。
庭の広さ。
玄関まで続く細い道。
そこまでは、記憶の中にある。
けれど。
誰が住んでいたのか。
どんな顔をしていたのか。
そこだけが抜け落ちていた。
「変だな……」
辰野の声が小さく漏れる。
「ここ、知ってるはずなのに」
朝日は資料を開く。
現在の地図。
古い地図。
どちらも目の前の家を示していた。
朝日は何も言わず、静かに資料を閉じた。
⸻
その時だった。
――ドン。
山の奥から、低い太鼓の音が一度だけ響いた。
四人が同時に足を止める。
静寂。
再び音は鳴らない。
鼎は山の方を見る。
「祭り……ですかね」
返事はない。
五和は山の奥を静かに見つめていた。
表情は変わらない。
ただ、視線だけが僅かに鋭くなる。
辰野も同じ方向を見ていた。
その音を知っている気がした。
いつ。
どこで。
何のために鳴っていたのか。
何一つ思い出せない。
それでも、胸の奥だけが妙にざわついた。
やがて五和が何事もなかったように歩き始める。
三人も後を追う。
⸻
村の奥へ進む。
家々は次第にまばらになり、道は山の斜面に沿うように細くなっていく。
畑も途切れ、周囲を木々が覆い始めた。
その木々の間から、古い鳥居が姿を現した。
橋の向こうから見えていた鳥居だった。
近づくにつれ、その古さがよく分かる。
深く刻まれた傷。
厚く張り付いた苔。
長い年月をそこに立ち続けてきたようだった。
辰野は鳥居の前で立ち止まる。
「……思い出せない」
鼎が振り向く。
「何を?」
辰野は鳥居の奥を見つめたまま、小さく首を振る。
「この先だけ……何も」
胸の奥が冷える。
知らない場所だから思い出せないのとは違う。
ここへ来たことがない。
そう言い切れるはずなのに。
なぜか。
忘れているだけのような気がした。
「……何なんだよ」
辰野の口から、小さく漏れる。
自分自身へ向けた言葉だった。
風が吹く。
その風に混じって、
どこか遠くから笛の音が流れてきた。
細く。
途切れそうなほどかすかに。
辰野が顔を上げる。
鼎も息を呑んだ。
朝日も音のする方へ目を向けた。
五和は鳥居を静かに見上げる。
その横顔から感情は読み取れない。
やがて荷物を持ち直し、鳥居へ向かって歩き出した。
誰も声を掛けない。
笛の音だけが、山の奥から静かに響いていた。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
次回更新は27日0時予定です。




