32 残ったもの
翌朝。
四人を乗せた車は、N県○○村へ向かっていた。
市街地を抜けると、道は次第に細くなっていく。片側には山の斜面が迫り、反対側には深い谷が続いていた。その底を、細い川が山道に寄り添うように流れている。
窓の外は、どこを見ても深い緑だった。
「辰野」
運転席の五和が口を開く。
「はい」
「村へ入ったら、お前の記憶は当てにするな」
車内が静かになった。
鼎が思わず前を見る。
「どういうことです?」
五和は前だけを見たまま答える。
「記憶は観測じゃない」
それだけだった。
辰野も聞き返さず、小さく息を吐いた。
昨日、古い地図を見た時の引っ掛かりが蘇る。
途中までは知っていた。
その先だけが、どうしても記憶にない。
昔の地図なのだから、今とは違っていて当然なのかもしれない。
それでも、何かが胸に残っていた。
*
やがて、前方に古い橋が見えてきた。
「あ……」
辰野が小さく声を漏らす。
「この橋……」
「知ってるのか?」
「知ってる」
少しだけ表情が緩んだ。
「親父と何度も通った」
釣りへ行く時。
親戚の家へ向かう時。
子どもの頃から何度も渡った橋だった。
辰野は懐かしそうに窓の外を眺める。
その視線が、不意に止まった。
「……あれ」
「どうした?」
鼎も視線を追う。
橋の向こう。
村のさらに奥。
山の木々に紛れるように、古びた石の鳥居が見えていた。
遠く、小さい。
それでも、確かにそこに立っている。
「鳥居なんて……あったか?」
「覚えてない?」
「いや」
辰野は首を振った。
「この橋は何回も渡ってる。でも、あんな鳥居を見た記憶がない」
朝日は資料を開き、現在の地図へ目を落とした。
「あるわね」
「昔から?」
今度は古い地図を確認する。
「少なくとも、この地図には載ってる」
辰野はもう一度、山の奥を見る。
そこにあること自体は、不自然には見えない。
むしろ、昔からずっとそこに立っていたようにさえ見える。
だからこそ。
記憶にないことが引っ掛かった。
*
車は橋を渡った。
辰野は窓の外を見続けている。
山も。
道も。
見覚えがある。
それなのに、橋を越えたあたりから、どこか知らない場所へ入っていくような感覚があった。
懐かしい。
でも。
何かが違う。
その二つが、うまく重ならなかった。
*
村へ入った。
山の斜面に沿って古い家々が点在し、わずかな平地には畑が広がっている。その脇を細い水路が流れ、背後にはすぐそこまで山が迫っていた。
景色そのものは穏やかだった。
辰野の記憶にある村と、大きく違うわけでもない。
田んぼの位置。
山の形。
道の曲がり方。
どれも知っている。
それでも、どこか一つずつ噛み合っていないように感じる。
鼎が窓の外を見た。
「……人がいませんね」
朝だった。
畑はある。
洗濯物も干されている。
軽トラックも停まっている。
人が暮らしている痕跡は、そこかしこにある。
なのに、誰の姿も見えなかった。
「留守なんですかね」
誰も答えなかった。
五和だけが静かに車を走らせる。
辰野は一軒の家へ目を向けた。
見覚えがあるような気がする。
けれど、誰の家だったのかは思い出せない。
そのことが、妙に胸へ引っ掛かった。
*
車は村の公民館の前で止まった。
エンジンが切れる。
その瞬間。
子どもたちの笑い声が聞こえた。
「……」
鼎が反射的に振り返る。
誰もいない。
辰野も同じ方向を見ていた。
「聞こえた?」
「……ああ」
辰野は誰もいない田んぼ道を見つめる。
ほんの一瞬。
子どもの頃の景色が浮かんだ。
友達と笑いながら自転車を走らせ、夕方まで遊んだ。
家へ帰る頃には、服が泥だらけになっていた。
ただの昔の記憶。
なのに、今の笑い声と重なった瞬間、胸の奥がざわついた。
「辰野?」
鼎が声を掛ける。
「……いや」
辰野は小さく首を振った。
「何でもない」
朝日は声のした方向をしばらく見ていた。
「今は、笑い声が聞こえた。それだけ記録して」
「それだけ?」
「誰の声かも、どうして聞こえたのかも分からないでしょう」
鼎は口を閉じた。
朝日はもう一度、誰もいない田んぼ道を見る。
「分からないところまで、勝手に埋めない」
「……はい」
五和が荷物を肩へ掛けた。
「行くぞ」
四人は車を降りた。
鼎は山の方へ目を向ける。
木々の隙間から、先ほど橋の上で見えた鳥居が遠くに覗いていた。
辰野も同じ場所を見ている。
その表情には、懐かしさとも不安ともつかないものが浮かんでいた。
五和は振り返らずに言った。
「観測を始める」
その一言で。
四人は、村の中へ足を踏み入れた。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
次回更新は25日0時予定です。




