31 空白
N県○○村。
資料の表紙に記された文字を、辰野は黙ったまま見つめていた。
さっきまでファミレスで話していた、自分の故郷。
親戚が口を閉ざした、古い習慣。
そして今、その場所で境界が観測されたという。
偶然にしては、重なりすぎている。
田んぼ道を自転車で走ったこと。
山へ虫を捕りに行ったこと。
親戚の家で菓子をもらったこと。
辰野にとって、そこは何の変哲もない故郷だった。
それなのに今は。
表紙に書かれた村の名前さえ、少し違うものに見える。
「いつまで表紙を見てるつもり?」
朝日蘭の声が沈黙を破った。
「あ……すみません」
「謝らなくていいから開きなさい。表紙を眺めてても中身は変わらないわよ」
辰野は静かに資料を開いた。
鼎も隣から覗き込む。
机には次々と資料が並べられていく。
現在の地図。
古い地形図。
航空写真。
村の古写真。
そして、過去の観測記録。
「こんなに資料があるんですね」
鼎が思わず呟く。
「調査対象が違えば、見るものも変わる」
朝日は古い地図を広げた。
「毎回同じやり方で答えが出るほど、調査は単純じゃないの」
「答えを見つけるための調査じゃないんですか?」
朝日は鼎を見る。
「私たちは答え合わせをしに行くんじゃないのよ」
現在の地図を指す。
「何が残っているか」
古い写真へ指を移す。
「何が変わったか」
最後に一枚の紙を持ち上げた。
日付と村名だけが記され、それ以外は空白だった。
「そして、何が消えたか」
「……これも記録なんですか?」
「そうよ」
「何も書いてありませんけど」
「だから見るの」
鼎は首を傾げる。
朝日は小さく息を吐いた。
「怪異や都市伝説だけ追っていたら、本当に見るべきものを見落とす」
「怪異だけが伝承ではない」
それまで黙っていた五和が口を開く。
「見るものを最初から決めるな」
その言葉に、鼎は野霧湖での出来事を思い出した。
湖の主を怪物だと決めつけていたら、美羽が見ていた景色には辿り着けなかった。
「……分かりました」
「本当に?」
「努力します」
朝日は小さく頷いた。
「その方が信用できる返事ね」
⸻
その間も、辰野は古い写真を見つめていた。
白黒写真には、山に囲まれた集落が写っている。
現在より多くの家々。
畑で働く人々。
道を走る子どもたち。
辰野の視線が、一人の子どもの姿で止まった。
小さな影だった。
顔までは分からない。
ただ、田んぼ脇の道を走っている。
なぜか。
子どもの頃の自分が、その道を自転車で走った記憶が浮かんだ。
同じ場所なのか。
違う場所なのか。
写真が古すぎて、もう分からない。
「知ってる場所か?」
鼎が尋ねる。
「……多分」
「多分?」
「今とは違いすぎる」
辰野は写真の一角を指差した。
「この辺は今、林なんだ」
「昔は家があった?」
「たぶん。でも……」
辰野は写真をもう一度見る。
「こんなに人がいた場所って感じがしないんだよな」
自分が知っている村は、もっと静かだった。
子どもの頃から、人の少ない場所だった。
だからこそ。
写真の中の賑わいが、自分の故郷ではないように見える。
朝日が写真を覗き込む。
「困るのは、この写真に年代が残ってないこと」
裏返しても、何も書かれていない。
「ほかの資料も同じよ」
朝日は村史の写しを開いた。
年表には、災害、人口、合併などが細かく記されている。
しかし、数十年分だけ極端に記述が少ない。
「ここだけ空白なの」
鼎は眉をひそめた。
「何もなかったとか……」
「数十年も?」
鼎は黙る。
確かに不自然だった。
辰野は、その空白を見つめていた。
何も書かれていない。
ただそれだけなのに。
子どもの頃、大人たちが自分の前で急に話をやめた光景が頭をよぎる。
『子どもは知らなくていい』
あの時も。
何も聞かされなかった。
⸻
五和が静かに一枚の資料を手に取る。
「消えた」
「記録ですか?」
「分からん」
「失くなっただけかもしれない?」
「それも分からん」
五和は資料を戻した。
「分からないことを、都合よく埋めるな」
鼎は口を閉じる。
理由を作れば安心できる。
だが、それは観測ではない。
辰野もまた、空白から目を離した。
知らされなかったことと。
残っていないこと。
今はまだ、それを同じものとして考えるべきではない。
そう自分に言い聞かせるように。
⸻
朝日が静かに言う。
「一つだけ確かなことがある」
「何です?」
「この村には、過去が残っていない部分がある」
辰野が僅かに顔を上げた。
「そんなこと……」
「ないと言い切れる?」
辰野は答えられなかった。
「知らないことと、なかったことは違う」
その言葉だけが部屋へ残る。
⸻
「親戚に言われました」
辰野がぽつりと呟く。
「お前は知らなくていいって」
誰も口を挟まない。
「昔話だからだと思ってました。でも……」
資料の空白を見る。
「子どもの頃も、似たようなことを言われた気がするんです」
朝日が辰野を見る。
「同じ話?」
「分かりません」
辰野は首を振る。
「だから、まだ決めつけたくないです」
その言葉に、五和が僅かに視線を向けた。
何も言わない。
辰野もそれ以上続けなかった。
ただ。
自分の知らない過去が、確かに故郷のどこかに残っている。
そんな感覚だけが、少しずつ大きくなっていた。
⸻
「そういえば」
鼎が五和を見る。
「アカライ以外にも、境界を調べている人たちはいるんですか?」
「いる」
「協力してるんですか?」
「場合による」
「同じ境界を調べてるのに?」
五和は静かに答えた。
「境界を見ている」
一拍置いて続ける。
「だが、見ているものは同じではない」
朝日が腕を組む。
「私は嫌いだけどね」
「知ってるんですか?」
「知らなきゃ嫌いにならないでしょ」
「名前は?」
「今は知らなくていい」
その一言に、辰野の指が僅かに止まる。
朝日も気づいたらしい。
一瞬だけ辰野を見る。
しかし、謝りも言い直しもしなかった。
辰野も何も言わない。
ただ、その言葉だけが妙に耳に残った。
⸻
朝日は現在の地図と古い地図を並べた。
「現地で確認するのは、この奥」
古い地図では、一本の道が村の奥まで続いている。
現在の地図では、途中で途切れていた。
「今は山道ね」
「何があるんです?」
「分からない」
朝日は鼎を見る。
「だから行くのよ」
辰野は古い地図に目を落とした。
指で道を追う。
途中までは分かる。
子どもの頃にも通ったことがある。
だが。
その先。
地図の奥へ伸びる道だけが、記憶に引っ掛からなかった。
「……。」
「辰野?」
「いや」
小さく首を振る。
「昔の地図だからだと思う」
そう答えた。
けれど、自分でもなぜか納得できなかった。
⸻
五和が立ち上がる。
「明朝、出る」
それだけ言って、部屋を出ていった。
朝日はため息をつく。
「相変わらず説明は全部人任せ」
鼎が苦笑する。
朝日は辰野へ視線を向けた。
「地元だからって、一人で動かないこと」
「分かりました」
「鼎も」
「はい」
「現地では、自分が見たいものを見るんじゃない」
一拍置く。
「見えるものを、そのまま観測しなさい」
鼎は静かに頷いた。
辰野も遅れて頷く。
けれど。
その視線はもう一度、古い地図の先へ向いていた。
⸻
資料は封筒へ戻される。
朝日が封筒を閉じた。
「明日は、地図にないものを探すんじゃない」
二人が顔を上げる。
「今そこに残っているものを見なさい」
辰野は、その言葉を聞きながら思う。
自分が忘れていただけなのか。
誰かが残さなかったのか。
それとも。
まだ自分が知らないだけなのか。
窓の外では、夕暮れが静かに公民館を包み込んでいた。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
次回更新は23日0予定です。




