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Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。  作者: 赤足
第三章 伝承編 忘レ乃里

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31/68

31 空白

 N県○○村。


 資料の表紙に記された文字を、辰野は黙ったまま見つめていた。


 さっきまでファミレスで話していた、自分の故郷。


 親戚が口を閉ざした、古い習慣。


 そして今、その場所で境界が観測されたという。


 偶然にしては、重なりすぎている。


 田んぼ道を自転車で走ったこと。


 山へ虫を捕りに行ったこと。


 親戚の家で菓子をもらったこと。


 辰野にとって、そこは何の変哲もない故郷だった。


 それなのに今は。


 表紙に書かれた村の名前さえ、少し違うものに見える。


「いつまで表紙を見てるつもり?」


 朝日蘭の声が沈黙を破った。


「あ……すみません」


「謝らなくていいから開きなさい。表紙を眺めてても中身は変わらないわよ」


 辰野は静かに資料を開いた。


 鼎も隣から覗き込む。


 机には次々と資料が並べられていく。


 現在の地図。


 古い地形図。


 航空写真。


 村の古写真。


 そして、過去の観測記録。


「こんなに資料があるんですね」


 鼎が思わず呟く。


「調査対象が違えば、見るものも変わる」


 朝日は古い地図を広げた。


「毎回同じやり方で答えが出るほど、調査は単純じゃないの」


「答えを見つけるための調査じゃないんですか?」


 朝日は鼎を見る。


「私たちは答え合わせをしに行くんじゃないのよ」


 現在の地図を指す。


「何が残っているか」


 古い写真へ指を移す。


「何が変わったか」


 最後に一枚の紙を持ち上げた。


 日付と村名だけが記され、それ以外は空白だった。


「そして、何が消えたか」


「……これも記録なんですか?」


「そうよ」


「何も書いてありませんけど」


「だから見るの」


 鼎は首を傾げる。


 朝日は小さく息を吐いた。


「怪異や都市伝説だけ追っていたら、本当に見るべきものを見落とす」


「怪異だけが伝承ではない」


 それまで黙っていた五和が口を開く。


「見るものを最初から決めるな」


 その言葉に、鼎は野霧湖での出来事を思い出した。


 湖の主を怪物だと決めつけていたら、美羽が見ていた景色には辿り着けなかった。


「……分かりました」


「本当に?」


「努力します」


 朝日は小さく頷いた。


「その方が信用できる返事ね」


⸻


 その間も、辰野は古い写真を見つめていた。


 白黒写真には、山に囲まれた集落が写っている。


 現在より多くの家々。


 畑で働く人々。


 道を走る子どもたち。


 辰野の視線が、一人の子どもの姿で止まった。


 小さな影だった。


 顔までは分からない。


 ただ、田んぼ脇の道を走っている。


 なぜか。


 子どもの頃の自分が、その道を自転車で走った記憶が浮かんだ。


 同じ場所なのか。


 違う場所なのか。


 写真が古すぎて、もう分からない。


「知ってる場所か?」


 鼎が尋ねる。


「……多分」


「多分?」


「今とは違いすぎる」


 辰野は写真の一角を指差した。


「この辺は今、林なんだ」


「昔は家があった?」


「たぶん。でも……」


 辰野は写真をもう一度見る。


「こんなに人がいた場所って感じがしないんだよな」


 自分が知っている村は、もっと静かだった。


 子どもの頃から、人の少ない場所だった。


 だからこそ。


 写真の中の賑わいが、自分の故郷ではないように見える。


 朝日が写真を覗き込む。


「困るのは、この写真に年代が残ってないこと」


 裏返しても、何も書かれていない。


「ほかの資料も同じよ」


 朝日は村史の写しを開いた。


 年表には、災害、人口、合併などが細かく記されている。


 しかし、数十年分だけ極端に記述が少ない。


「ここだけ空白なの」


 鼎は眉をひそめた。


「何もなかったとか……」


「数十年も?」


 鼎は黙る。


 確かに不自然だった。


 辰野は、その空白を見つめていた。


 何も書かれていない。


 ただそれだけなのに。


 子どもの頃、大人たちが自分の前で急に話をやめた光景が頭をよぎる。


『子どもは知らなくていい』


 あの時も。


 何も聞かされなかった。


⸻


 五和が静かに一枚の資料を手に取る。


「消えた」


「記録ですか?」


「分からん」


「失くなっただけかもしれない?」


「それも分からん」


 五和は資料を戻した。


「分からないことを、都合よく埋めるな」


 鼎は口を閉じる。


 理由を作れば安心できる。


 だが、それは観測ではない。


 辰野もまた、空白から目を離した。


 知らされなかったことと。


 残っていないこと。


 今はまだ、それを同じものとして考えるべきではない。


 そう自分に言い聞かせるように。


⸻


 朝日が静かに言う。


「一つだけ確かなことがある」


「何です?」


「この村には、過去が残っていない部分がある」


 辰野が僅かに顔を上げた。


「そんなこと……」


「ないと言い切れる?」


 辰野は答えられなかった。


「知らないことと、なかったことは違う」


 その言葉だけが部屋へ残る。


⸻


「親戚に言われました」


 辰野がぽつりと呟く。


「お前は知らなくていいって」


 誰も口を挟まない。


「昔話だからだと思ってました。でも……」


 資料の空白を見る。


「子どもの頃も、似たようなことを言われた気がするんです」


 朝日が辰野を見る。


「同じ話?」


「分かりません」


 辰野は首を振る。


「だから、まだ決めつけたくないです」


 その言葉に、五和が僅かに視線を向けた。


 何も言わない。


 辰野もそれ以上続けなかった。


 ただ。


 自分の知らない過去が、確かに故郷のどこかに残っている。


 そんな感覚だけが、少しずつ大きくなっていた。


⸻


「そういえば」


 鼎が五和を見る。


「アカライ以外にも、境界を調べている人たちはいるんですか?」


「いる」


「協力してるんですか?」


「場合による」


「同じ境界を調べてるのに?」


 五和は静かに答えた。


「境界を見ている」


 一拍置いて続ける。


「だが、見ているものは同じではない」


 朝日が腕を組む。


「私は嫌いだけどね」


「知ってるんですか?」


「知らなきゃ嫌いにならないでしょ」


「名前は?」


「今は知らなくていい」


 その一言に、辰野の指が僅かに止まる。


 朝日も気づいたらしい。


 一瞬だけ辰野を見る。


 しかし、謝りも言い直しもしなかった。


 辰野も何も言わない。


 ただ、その言葉だけが妙に耳に残った。


⸻


 朝日は現在の地図と古い地図を並べた。


「現地で確認するのは、この奥」


 古い地図では、一本の道が村の奥まで続いている。


 現在の地図では、途中で途切れていた。


「今は山道ね」


「何があるんです?」


「分からない」


 朝日は鼎を見る。


「だから行くのよ」


 辰野は古い地図に目を落とした。


 指で道を追う。


 途中までは分かる。


 子どもの頃にも通ったことがある。


 だが。


 その先。


 地図の奥へ伸びる道だけが、記憶に引っ掛からなかった。


「……。」


「辰野?」


「いや」


 小さく首を振る。


「昔の地図だからだと思う」


 そう答えた。


 けれど、自分でもなぜか納得できなかった。


⸻


 五和が立ち上がる。


「明朝、出る」


 それだけ言って、部屋を出ていった。


 朝日はため息をつく。


「相変わらず説明は全部人任せ」


 鼎が苦笑する。


 朝日は辰野へ視線を向けた。


「地元だからって、一人で動かないこと」


「分かりました」


「鼎も」


「はい」


「現地では、自分が見たいものを見るんじゃない」


 一拍置く。


「見えるものを、そのまま観測しなさい」


 鼎は静かに頷いた。


 辰野も遅れて頷く。


 けれど。


 その視線はもう一度、古い地図の先へ向いていた。


⸻


 資料は封筒へ戻される。


 朝日が封筒を閉じた。


「明日は、地図にないものを探すんじゃない」


 二人が顔を上げる。


「今そこに残っているものを見なさい」


 辰野は、その言葉を聞きながら思う。


 自分が忘れていただけなのか。


 誰かが残さなかったのか。


 それとも。


 まだ自分が知らないだけなのか。


 窓の外では、夕暮れが静かに公民館を包み込んでいた。

今回も読んでくださり、ありがとうございました。


次回更新は23日0予定です。

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