30 相談
見たことと、理解したことは違う。
試験を終えた時、五和が口にした言葉。
あの時の鼎には、その意味がよく分からなかった。
見たものは、見たものだ。そこに何があり、何が起きたのかを確かめることが、観測なのだと思っていた。
けれど、野霧湖から戻った今。
その言葉の意味を、少しだけ理解できた気がしていた。
鼎は自室のベッドに横になり、天井を見つめていた。
目を閉じると、今でもあの湖が浮かぶ。
濃い霧。
静かな水面。
船の下を進んでいた、大きな黒い影。
その影を見つめる美羽。
そして、彼女が最後に伝えた言葉。
ありがとう。
あの時、確かに何かがいた。
鼎もそれを見た。
けれど、湖の主が何者だったのかは分からない。
人を襲う存在だったのか。
迷った者を守る存在だったのか。
結局、何一つとして理解できてはいなかった。
「俺は、確かに見た」
鼎は小さく呟いた。
だが、本当に観測できたのだろうか。
人々が残した伝承。
美羽の記憶。
湖の主の姿。
それらは同じ場所にありながら、最後まで一つには重ならなかった。
もしかすると。
重ならないものを、無理に一つにしようとすること自体が、間違いなのかもしれない。
鼎は腕で目元を覆った。
結局、自分は何を見て、何を観測できたのだろう。
答えは出ない。
ただ、その問いだけが野霧湖から持ち帰ったものとして、胸の中に残っていた。
その時、枕元に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、辰野渉の名前が表示されている。
「もしもし」
『あ、鼎か?』
「そうだけど。どうした?」
電話の向こうで、辰野が少し黙った。
普段なら、用件をすぐに話す男だ。その辰野が言葉を選んでいる。
『今日、時間あるか?』
「あるけど」
『ちょっと相談したいことがある』
「アカライのこと?」
『たぶん、関係あるかもしれない』
「たぶん?」
『俺にも、まだ分からないんだ』
辰野の声には迷いがあった。
『電話だと話しづらい。近くのファミレスでいいか?』
「分かった」
『場所、送る』
通話が切れ、すぐに地図が送られてきた。
辰野が自分から相談してくるのは珍しい。
少なくとも、軽い話ではなさそうだった。
*
ファミレスの中には、食器の触れ合う音と客たちの話し声が広がっていた。
家族連れや学生、ノートパソコンを開いている会社員。厨房からは料理の匂いが漂ってくる。
どこにでもある、何気ない昼下がりだった。
鼎が店内を見回すと、奥の席から辰野が手を上げた。
「こっち」
向かいに座る。
辰野の前には、ほとんど減っていないコーヒーが置かれていた。
「待った?」
「いや、俺も来たばっかり」
そう言いながらも、辰野は落ち着かない様子でカップの取っ手に触れている。
鼎はメニューを脇へ寄せた。
「それで、相談って?」
「ああ」
辰野は一度周囲を見回し、少しだけ声を落とした。
「この前、実家に帰ったんだ」
「実家?」
「親戚の集まりがあってさ。久しぶりに顔を出した。そこで、昔の話になったんだ」
「昔の話って?」
「俺の地元にあったらしい、古い習慣の話」
鼎は、辰野の次の言葉を待った。
「詳しく聞けたわけじゃない。親戚の一人が、酔った勢いで口にしただけなんだ。昔は、村の中で決められていた役目があったって」
「役目?」
「それも、よく分からない」
辰野は首を振った。
「最初は祭りとか、農作業の当番みたいな話だと思った。でも、そういう感じじゃなかった」
「どう違った?」
「聞こうとしたら、急に話をやめたんだ」
周囲では店員が料理を運び、隣の席では家族が楽しそうに笑っている。
そんな日常の中で、辰野の声だけが妙に重く聞こえた。
「年寄りの一人に言われた」
「何て?」
辰野は少し間を置いた。
「お前は知らなくていい話だって」
その言葉を口にしてから、辰野は黙った。
「……どうした?」
「いや。その言い方、前にも聞いた気がしてさ」
「前にも?」
「子どもの頃」
辰野は眉間に皺を寄せた。
「いつだったかは覚えてない。親戚の家だったと思う」
古い家。
畳の匂い。
開け放たれた襖。
大人たちの話し声。
幼い辰野は、廊下の端に座っていた。
何の話をしていたのかは覚えていない。
ただ、自分が部屋へ入った途端、大人たちが話をやめた。
『何の話?』
誰かに聞いた。
すると、大人の一人が笑って言った。
『子どもは知らなくていい』
それだけ。
ずっと忘れていた記憶だった。
「その時は、別に気にしなかったんだけどな。子どもには聞かせない話なんて、いくらでもあるし」
「それを今回思い出した?」
「ああ」
「同じ話だったのか?」
「分からない」
辰野はすぐに首を振った。
「だから余計に気持ち悪いんだよ。関係ない昔の記憶かもしれないのに、急に思い出した」
鼎の中に、小さな違和感が生まれた。
知らなくていい。
それは、何もなかったという言葉ではない。
むしろ、何かがあったことを認めているようにも聞こえる。
「辰野は、その習慣を今まで知らなかったのか?」
「全く。地元で噂になってたわけでもないし、家でも聞いたことがない」
「今は普通の村なんだよな?」
「ああ。静かで、人も少なくて。特別なものなんて何もない」
そう言ってから、辰野は少し考え込んだ。
「……でも、子どもの頃は嫌いじゃなかったんだ」
「村が?」
「ああ」
夏になれば田んぼの横を自転車で走った。
山へ入って虫を捕った。
親戚の家へ行けば、大人たちに菓子を渡された。
夕方になると、どこからか夕飯の匂いがしてきた。
「何もない場所だったけどさ。それが普通だった」
辰野は小さく笑った。
「だから余計に、知らない場所の話をされてるみたいで」
笑みが消える。
「自分の地元なのにな」
鼎は何も言わなかった。
「じゃあ、どうしてアカライに関係があると思った?」
「分からない。ただ、話を聞いた時に何か引っかかった」
「何かって?」
「それが説明できないから困ってるんだ」
辰野は自分の胸元へ軽く手を置いた。
「知ってる気がする、とかじゃない。ただ……知らないままにしておくのが、嫌だった」
それだけ言って、辰野は手を下ろした。
鼎は腕を組んだ。
親戚が昔話を避けた。
それだけで、境界へ結びつける理由にはならない。
けれど、野霧湖で一つの話だけを聞いて意味を決めつけることの危うさを知った。
「まだ、何も分からないな」
鼎が言うと、辰野は少し肩を落とした。
「やっぱり、そうだよな」
「違う」
「え?」
「何も分からないから、調べるんだろ」
辰野が顔を上げる。
「聞いた話が本当なのか。境界と関係があるのか。それとも、ただの昔話なのか。今の時点で決める必要はないと思う」
辰野はしばらく鼎を見て、それからわずかに笑った。
「なんか、お前。ちょっと五和さんみたいになってきたな」
「どこが」
「言ってることが面倒くさい」
「相談した相手に言うことかよ」
二人の間に小さな笑いが生まれ、張りつめていた辰野の表情が少しだけ緩んだ。
「でも、アカライには話した方がいいと思う」
「こんな曖昧な話でも?」
「調査するかどうかを決めるのは、俺たちじゃないし」
「それもそうか」
辰野が頷いた、その時だった。
二人のスマートフォンが、ほぼ同時に震えた。
「ん?」
鼎が画面を見る。
五和からだった。
辰野の端末にも、アカライからの通知が届いている。
「もしもし」
『今、辰野と一緒か』
挨拶もなく、五和が尋ねる。
鼎は辰野と顔を見合わせた。
「一緒ですけど」
『今から来られるか』
「公民館に?」
『そうだ』
「何かあったんですか?」
短い沈黙。
『調査が決まった』
鼎は姿勢を正した。
「どこのですか?」
『来れば分かる』
それだけ言って、通話は切れた。
「相変わらず説明しないな……」
「五和さんらしいけどな」
二人は顔を見合わせ、急いで席を立った。
*
公民館の一室へ入ると、五和はすでに机の前に座っていた。
その隣には、見知らぬ女性が立っている。
三十歳前後だろうか。
腕を組みながら、入ってきた鼎と辰野を遠慮なく見比べていた。
「遅い」
開口一番、女性が言った。
鼎は壁の時計を見る。
「連絡もらってから、そんなに経ってないですけど」
「言い訳だけは早いのね」
女性は呆れたように息を吐いた。
辰野が小声で鼎に尋ねる。
「誰?」
「俺も知らない」
「聞こえてるわよ」
二人は同時に口を閉じた。
五和が女性へ視線を向ける。
「朝日蘭。アカライの職員だ。今回の調査責任者の一人になる」
「一人?」
「俺も同行する」
朝日は机の上の資料を指先で叩いた。
「新人は二人一組。責任者も二人。今回はその形で行くわ」
五和が資料を辰野へ差し出す。
「今回の調査地だ」
辰野が受け取り、鼎も横から覗き込んだ。
表紙には、簡素な文字で調査地が記されている。
N県○○村。
その文字を見た瞬間、辰野の指が止まった。
「ここ……」
さっきまでファミレスで話していた場所。
田んぼ道を自転車で走った。
山で虫を捕った。
親戚の家で菓子をもらった。
そして。
『子どもは知らなくていい』
忘れていた声まで、一緒に蘇る。
鼎は辰野を見る。
「知ってる場所?」
辰野は答えない。
資料から目を離せずにいる。
朝日が、その表情をじっと観察した。
「知ってるも何も、あなたの地元でしょう」
部屋の空気が、わずかに変わった。
「なんで……」
辰野の声が掠れる。
「なんで、ここが調査地なんですか」
五和は静かに答えた。
「境界が観測された」
辰野は何も言わなかった。
ただ、N県○○村と書かれた文字を見つめている。
自分が知っている村。
何もないと思っていた故郷。
なのに今は、その名前さえ少し違うものに見えていた。
鼎も、もう一度資料へ目を落とした。
辰野が語った、誰も話そうとしない昔の習慣。
知らなくていいと言われた過去。
そして、同じ日に届いた調査命令。
まだ、何も分からない。
だが、野霧湖へ向かう前とは違う。
分からないことを、すぐに一つの意味へ当てはめようとは思わなかった。
まずは見る。
聞く。
調べる。
そして、観測する。
朝日が二人を見ながら口を開いた。
「先に言っておくけど」
その声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「今回、あんたたちが見るものは、怪異とは限らない」
鼎は資料を見つめたまま尋ねる。
「じゃあ、何を観測するんですか」
朝日は、わずかに目を細めた。
「それを確かめに行くのよ」
忘レ乃里編スタートです。




