29 野霧湖
霧の中。
湖の主と美羽は、互いを見つめていた。
言葉はない。
声もない。
それでも。
何かが交わされている。
鼎には、そう見えた。
幼い日の美羽。
霧の中で家族とはぐれた少女。
その時。
あの黒い影だけが、最後までそこにいた。
だからなのか。
美羽の記憶には、その姿だけが残っていた。
そして今。
境界で、再び交わる。
「これが……共鳴。」
鼎が小さく呟く。
五和は答えない。
ただ静かに、その光景を見つめ続けていた。
⸻
湖の主が、ゆっくりと身体を動かした。
大きな背が水面を滑る。
その度に、湖面へ静かな波が広がっていく。
遊覧船がわずかに揺れる。
「波かな?」
「急に揺れたね。」
観光客たちは笑いながら話している。
誰一人として。
目の前の存在には気付いていない。
同じ船。
同じ湖。
同じ霧。
それでも。
見えている世界は違っていた。
黒い影は、ゆっくりと進路を変える。
美羽より少しだけ前を泳ぐ。
鼎は、その姿を目で追った。
あの日も。
今日も。
黒い影は、ただ前を泳いでいる。
偶然なのか。
それとも。
鼎には、まだ分からなかった。
「私……。」
美羽が震える声で呟く。
「あの時、ずっと怖かった。」
「誰にも見つけてもらえないと思った。」
「このまま一人になるんだって。」
一度言葉を止める。
「でも。」
静かに湖を見る。
「あの子は。」
「私を置いていかなかった。」
その声が届いたのか。
黒い影は、ゆっくりと湖の中央へ向かって泳ぎ始める。
その先では。
白い霧が、少しずつ薄くなっていた。
「待って。」
美羽が一歩踏み出す。
鼎がそっと腕を掴んだ。
「危ない。」
「でも……。」
「追わなくていい。」
鼎は湖を見つめたまま言う。
「もう。」
「帰れるんだろ。」
美羽は静かに湖を見つめる。
やがて、小さく頷いた。
その時。
五和がゆっくり口を開く。
「伝承は。」
誰も動かなかった。
「人が見たものを。」
「人が理解できる形で語り継いできた。」
一拍置く。
「だから。」
「語られた姿と、本当にそこにあったものが同じとは限らない。」
鼎は湖を見る。
湖の主。
怪物だったのか。
そうではなかったのか。
まだ分からない。
それでも。
美羽は帰ってきた。
それだけは事実だった。
⸻
黒い影は、霧の向こうへ消えていく。
同時に。
止まっていた風が静かに吹き始めた。
白い霧が流れていく。
鳥の声が聞こえた。
湖面へ光が戻る。
遊覧船も、ゆっくりと霧を抜けていく。
鼎は深く息を吐いた。
いつの間にか呼吸を止めていたらしい。
凪は静かに記録帳を開く。
『大型影、複数名で観測。』
『対象、美羽との共鳴を確認。』
『敵意、確認されず。』
そこでペンが止まる。
少しだけ考えたあと。
最後の一行を書き加えた。
『伝承との関連性、継続調査。』
「正体は書かないんですか?」
鼎が尋ねる。
凪は記録帳を閉じる。
「確認できていませんから。」
「見たことと。」
「理解したことは違います。」
鼎は静かに頷く。
それが。
観測なのだ。
⸻
鼎は鞄から父のノートを取り出した。
霧で少し湿った表紙を開く。
野霧湖のページ。
『霧は隠すためではない。』
『境界は晴れる。』
『灯りを持つこと。』
『焦るな。』
『待て。』
滲んでいた最後の一文が、少しだけ輪郭を持つ。
『主は、迷った者を――』
その先は、まだ読めない。
「五和さん。」
鼎はノートを差し出した。
「これ。」
五和はページを見つめる。
ほんのわずかに表情が変わった。
「……。」
「何て書いてあるんですか。」
五和は静かにノートを閉じた。
「まだ読むな。」
短い一言だった。
「どうしてですか。」
五和は霧が晴れ始めた湖を見つめる。
「答えは。」
「教えられるものじゃない。」
「自分で観測しろ。」
鼎は黙ってノートを受け取る。
湖面には、もう黒い影はいない。
霧も晴れている。
何事もなかったように。
いつもの野霧湖が広がっていた。
それでも。
父がここで見たもの。
そして。
最後の一文に続く言葉だけは。
まだ、境界の向こうに残されたままだった。
長い間、野霧湖編お付き合い頂きありがとうございました。
次回新章【伝承編・忘レ乃里】
※野霧湖編の完結記念として、活動報告に「野霧湖観光マップ」「調査資料」「キャラクター設定資料」などを公開しています。興味のある方はぜひ。




