28 声
黒い影は、遊覧船と並ぶように泳ぎ続けていた。
霧の向こう。
湖面のすぐ下。
輪郭は見えない。
それでも、そこに何かがいる。
鼎には、もうそれが分かっていた。
「……共鳴。」
先ほど五和が口にした言葉を、もう一度呟く。
境界と交わった者。
再び同じ境界へ近付いた時、互いに響き合う。
美羽の記憶が戻るたび、黒い影との距離も縮まっている。
どちらが先なのかは分からない。
ただ。
二つが無関係だとは、鼎には思えなかった。
「美羽。」
鼎は膝をつき、美羽の隣へ座る。
「俺の声、聞こえるか?」
美羽は胸元を押さえたまま、小さく頷いた。
「聞こえる……。」
「無理に思い出さなくていい。」
「でも……。」
美羽は苦しそうに湖を見る。
「向こうから、来るの。」
「記憶が?」
「違う……。」
一度、息を呑む。
「呼ばれてる。」
その言葉に、鼎は霧の奥へ目を向けた。
声は聞こえない。
水音もない。
ただ、影だけが静かに泳いでいる。
「何て?」
美羽は首を横へ振った。
「分からない。」
「声じゃないの。」
「でも……。」
「こっちを見てる。」
影が、さらに近付く。
遊覧船との距離は、もうほとんどなかった。
水面がわずかに盛り上がる。
大きな何かが、船のすぐ脇を通っている。
次の瞬間。
美羽の身体が大きく震えた。
「……っ!」
両手で頭を抱え、その場へうずくまる。
「美羽!」
鼎が肩へ手を伸ばす。
その手を五和が掴んだ。
「触るな。」
「でも!」
「今は、美羽と境界が交わっている。」
五和は影を見たまま続ける。
「不用意に入れば、お前まで引かれる。」
鼎は伸ばした手を止めた。
目の前で苦しんでいる。
それでも。
今の自分には、何をしていいのか分からない。
「美羽!」
せめて声だけは届くように呼ぶ。
「俺はここにいる!」
美羽の呼吸が一瞬だけ止まった。
そして。
閉じていた瞼の奥で、記憶が弾けた。
⸻
白い霧。
幼い自分。
父と母の声。
兄の背中。
遊覧船を降りたあと。
湖畔の道を歩いていた。
兄を追いかけていたはずだった。
だが。
気付けば誰もいなかった。
「お兄ちゃん?」
声を上げる。
返事はない。
近くには人がいた。
笑い声も聞こえた。
それなのに。
誰も振り向かない。
幼い美羽は走った。
泣きながら。
家族の名前を呼びながら。
霧は、どこまでも深く続いていた。
もう帰れない。
そう思った、その時だった。
湖面の向こう。
黒い影が静かに姿を現した。
怖かった。
足が動かなかった。
影は何もしない。
ただ。
ゆっくりと泳ぎ始める。
一定の距離を保ったまま。
振り返るように。
幼い美羽は、気付けばその影を追い掛けていた。
どれくらい歩いたのか分からない。
やがて。
霧の向こうから声が聞こえた。
「美羽!」
父だった。
母も泣きながら名前を呼んでいる。
振り返る。
二人がいた。
もう一度、湖を見る。
黒い影は静かに湖の奥へ沈んでいく。
その姿は。
まるで。
帰る道だけを残して消えていくようだった。
⸻
美羽はゆっくりと目を開けた。
頬には涙が伝っていた。
「……違う。」
鼎が静かに問い掛ける。
「何が違う?」
美羽は湖面を見つめたまま、小さく首を振る。
「誰にも気付いてもらえなかったって……。」
「ずっと思ってた。」
一度息を吸う。
「でも。」
涙を拭いながら続けた。
「あの影は。」
「私を置いていかなかった。」
鼎は黒い影へ目を向ける。
湖の主。
子どもの頃に見たもの。
誰にも信じてもらえず、自分でも夢だったと思い込んでいた記憶。
あれは。
本当に怪物だったのだろうか。
その時だった。
黒い影が船の真横で動きを止めた。
湖面が大きく膨らむ。
ゆっくりと。
何かが浮かび上がろうとしていた。
霧の奥で、水が静かに割れていく。
凪が記録帳を開く。
だが、ペンを持つ手が止まった。
五和も黙ったまま、その瞬間を見つめている。
誰も言葉を発しない。
湖面から。
黒く濡れた何かが、ほんのわずかに姿を現した。
長い背。
水を押し退ける大きな身体。
その全貌は霧に隠れている。
ただ。
水面のすぐ上。
二つの光が、美羽を静かに見つめていた。
美羽は逃げなかった。
震えながら。
それでも、目を逸らさなかった。
「……ありがとう。」
小さな声だった。
湖の主は何も答えない。
ただ静かに。
霧の中を泳ぎ続けていた。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。
野霧湖編次回最終話となります。




