↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。  作者: 赤足
第二章 伝承編 野霧湖

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/68

28 声

 黒い影は、遊覧船と並ぶように泳ぎ続けていた。


 霧の向こう。


 湖面のすぐ下。


 輪郭は見えない。


 それでも、そこに何かがいる。


 鼎には、もうそれが分かっていた。


「……共鳴。」


 先ほど五和が口にした言葉を、もう一度呟く。


 境界と交わった者。


 再び同じ境界へ近付いた時、互いに響き合う。


 美羽の記憶が戻るたび、黒い影との距離も縮まっている。


 どちらが先なのかは分からない。


 ただ。


 二つが無関係だとは、鼎には思えなかった。


「美羽。」


 鼎は膝をつき、美羽の隣へ座る。


「俺の声、聞こえるか?」


 美羽は胸元を押さえたまま、小さく頷いた。


「聞こえる……。」


「無理に思い出さなくていい。」


「でも……。」


 美羽は苦しそうに湖を見る。


「向こうから、来るの。」


「記憶が?」


「違う……。」


 一度、息を呑む。


「呼ばれてる。」


 その言葉に、鼎は霧の奥へ目を向けた。


 声は聞こえない。


 水音もない。


 ただ、影だけが静かに泳いでいる。


「何て?」


 美羽は首を横へ振った。


「分からない。」


「声じゃないの。」


「でも……。」


「こっちを見てる。」


 影が、さらに近付く。


 遊覧船との距離は、もうほとんどなかった。


 水面がわずかに盛り上がる。


 大きな何かが、船のすぐ脇を通っている。


 次の瞬間。


 美羽の身体が大きく震えた。


「……っ!」


 両手で頭を抱え、その場へうずくまる。


「美羽!」


 鼎が肩へ手を伸ばす。


 その手を五和が掴んだ。


「触るな。」


「でも!」


「今は、美羽と境界が交わっている。」


 五和は影を見たまま続ける。


「不用意に入れば、お前まで引かれる。」


 鼎は伸ばした手を止めた。


 目の前で苦しんでいる。


 それでも。


 今の自分には、何をしていいのか分からない。


「美羽!」


 せめて声だけは届くように呼ぶ。


「俺はここにいる!」


 美羽の呼吸が一瞬だけ止まった。


 そして。


 閉じていた瞼の奥で、記憶が弾けた。


⸻


 白い霧。


 幼い自分。


 父と母の声。


 兄の背中。


 遊覧船を降りたあと。


 湖畔の道を歩いていた。


 兄を追いかけていたはずだった。


 だが。


 気付けば誰もいなかった。


「お兄ちゃん?」


 声を上げる。


 返事はない。


 近くには人がいた。


 笑い声も聞こえた。


 それなのに。


 誰も振り向かない。


 幼い美羽は走った。


 泣きながら。


 家族の名前を呼びながら。


 霧は、どこまでも深く続いていた。


 もう帰れない。


 そう思った、その時だった。


 湖面の向こう。


 黒い影が静かに姿を現した。


 怖かった。


 足が動かなかった。


 影は何もしない。


 ただ。


 ゆっくりと泳ぎ始める。


 一定の距離を保ったまま。


 振り返るように。


 幼い美羽は、気付けばその影を追い掛けていた。


 どれくらい歩いたのか分からない。


 やがて。


 霧の向こうから声が聞こえた。


「美羽!」


 父だった。


 母も泣きながら名前を呼んでいる。


 振り返る。


 二人がいた。


 もう一度、湖を見る。


 黒い影は静かに湖の奥へ沈んでいく。


 その姿は。


 まるで。


 帰る道だけを残して消えていくようだった。


⸻


 美羽はゆっくりと目を開けた。


 頬には涙が伝っていた。


「……違う。」


 鼎が静かに問い掛ける。


「何が違う?」


 美羽は湖面を見つめたまま、小さく首を振る。


「誰にも気付いてもらえなかったって……。」


「ずっと思ってた。」


 一度息を吸う。


「でも。」


 涙を拭いながら続けた。


「あの影は。」


「私を置いていかなかった。」


 鼎は黒い影へ目を向ける。


 湖の主。


 子どもの頃に見たもの。


 誰にも信じてもらえず、自分でも夢だったと思い込んでいた記憶。


 あれは。


 本当に怪物だったのだろうか。


 その時だった。


 黒い影が船の真横で動きを止めた。


 湖面が大きく膨らむ。


 ゆっくりと。


 何かが浮かび上がろうとしていた。


 霧の奥で、水が静かに割れていく。


 凪が記録帳を開く。


 だが、ペンを持つ手が止まった。


 五和も黙ったまま、その瞬間を見つめている。


 誰も言葉を発しない。


 湖面から。


 黒く濡れた何かが、ほんのわずかに姿を現した。


 長い背。


 水を押し退ける大きな身体。


 その全貌は霧に隠れている。


 ただ。


 水面のすぐ上。


 二つの光が、美羽を静かに見つめていた。


 美羽は逃げなかった。


 震えながら。


 それでも、目を逸らさなかった。


「……ありがとう。」


 小さな声だった。


 湖の主は何も答えない。


 ただ静かに。


 霧の中を泳ぎ続けていた。

今回も読んでくださり、ありがとうございます。

野霧湖編次回最終話となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。