25 影
白い霧は、なおも湖を包み込んでいた。
遊覧船は速度を落としたまま、静かに進み続ける。
船内では観光客たちが景色を眺めながら談笑していた。
「今日は霧が幻想的ですね。」
「こんなの初めて見た。」
笑い声が聞こえる。
その声が、どこか遠かった。
鼎は手すりへ手を掛けたまま、湖面を見つめていた。
何も見えない。
それでも目を離せない。
美羽は隣で静かに息を整えている。
五和と凪は霧の向こうを観測し続けていた。
その時だった。
船体が、ごく僅かに揺れる。
「……?」
鼎は足元を見る。
波ではない。
何かが船の下を通ったような感覚だった。
思わず身を乗り出す。
白い霧の隙間。
その奥。
遊覧船の真下を。
黒い影が、ゆっくりと横切った。
「――っ!」
息を呑む。
長い。
どこまで続いているのか分からない。
魚ではない。
流木でもない。
ただ静かに。
音も立てず。
湖の底を滑るように進んでいく。
次の瞬間。
影は霧の下へ溶けるように消えた。
「今の……。」
鼎が呟く。
五和は視線を逸らさず、小さく頷いた。
「ああ。」
「お前も見たか。」
凪はすぐに記録帳を開く。
『黒色影、一瞬確認。』
『形状、不明。』
『観測者二名以上、視認。』
美羽は震える声で呟いた。
「やっぱり……。」
「あの時も。」
「いた。」
鼎は美羽を見る。
その表情に嘘はなかった。
船長は前を見たまま首を傾げる。
「今日は魚も見えませんね。」
乗務員が笑う。
「霧のせいじゃないですか?」
「そうかもしれないな。」
二人は何事もなかったように会話を続ける。
鼎はゆっくりと一般客たちを見渡した。
誰一人として。
今の黒い影を見た様子はない。
五和が静かに口を開く。
「境界を体験していない者には。」
「見えない。」
短い一言だった。
だが、その意味は重かった。
鼎は再び湖面を見る。
そこには、もう何もない。
それでも。
この船の真下を、今も何かが泳いでいる。
そんな確信だけが、胸の奥へ静かに残っていた。
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次回更新は14日17時予定です。




