23 揺らぎ
遊覧船は静かに湖の中央へ向かって進み続けていた。
美羽はその場から動けなかった。
「ここだった……。」
その言葉だけが、小さく風へ溶けていく。
鼎は美羽の顔を覗き込んだ。
「美羽?」
返事はない。
その瞳は湖面を見つめたまま、小さく震えていた。
「私……。」
「来たことある。」
「この場所。」
その瞬間だった。
「っ……!」
美羽の身体がふらつく。
その場へうずくまり、両手で頭を抱え込んだ。
「美羽!」
鼎は慌てて駆け寄る。
「どうした!」
美羽は苦しそうに首を振る。
「違う……。」
「思い出そうとしてるんじゃない……。」
「勝手に……。」
「勝手に浮かんでくる……。」
息が乱れる。
額には汗が滲んでいた。
その様子を見た観光客たちもざわつき始める。
「大丈夫ですか?」
「船酔いじゃない?」
船長がこちらを振り返る。
その時だった。
五和が静かに口を開く。
「凪。」
「はい。」
凪はすぐに周囲へ視線を巡らせる。
双眼鏡を手に取り、湖面を見渡した。
その動きには迷いがない。
まるで、この状況を何度も経験してきたかのようだった。
鼎は美羽の肩へ手を添える。
「美羽、大丈夫だから。」
「ゆっくり息を――」
「鼎。」
五和の低い声が飛ぶ。
「下がれ。」
鼎は思わず振り返る。
「でも……!」
「下がれ。」
その一言には逆らえなかった。
鼎は美羽から一歩だけ距離を取る。
五和は静かにしゃがみ込み、美羽へ視線を合わせた。
「無理に思い出すな。」
美羽は苦しそうに呼吸を繰り返す。
五和は静かに続けた。
「境界は、忘れていたものまで連れてくる。」
その言葉の意味を、鼎は理解できなかった。
だが。
その瞬間だった。
鼎はふと顔を上げる。
「……。」
風が、止んでいた。
さっきまで頬を撫でていた風が消えている。
湖面も、不自然なほど静かだった。
凪は湖の奥を見つめたまま、小さく呟く。
「……霧が出ます。」
鼎は思わず周囲を見渡した。
「霧?」
まだ見えない。
だが数秒後。
湖面を這うように、白い霧がゆっくりと流れ始めた。
その景色を見た瞬間。
鼎の脳裏に、一冊のノートが浮かぶ。
父が残した、あの言葉。
『霧は隠すためではない。』
『境界は晴れる。』
意味は、まだ分からない。
それでも。
目の前で起きていることと、父の言葉が一本の線で繋がった気がした。
遊覧船は速度を落としながら、静かな霧の中へと進んでいく。
その先には、誰も知らない景色が待っていた。
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