22 湖上
遊覧船がゆっくりと岸を離れる。
小さな波を立てながら、船は野霧湖の中央へ向かって進み始めた。
デッキへ出ると、心地よい風が頬を撫でる。
湖面は青く澄み、周囲の山々が静かに映り込んでいた。
「気持ちいいな。」
鼎は手すりへ寄りかかる。
ゆっくりと息を吸い込む。
湖の匂い。
船底を叩く小さな波の音。
遠くで鳴き続ける蝉の声。
頬を撫でる風は、街で感じる風とは少し違っていた。
目の前には、何十年も変わらずそこにある景色が広がっている。
思わず笑みがこぼれた。
美羽はその様子を見て苦笑する。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しい。」
鼎は即答した。
しばらく湖を眺めたあと、小さく呟く。
「……やっぱり来てよかった。」
「そんなに?」
「うん。」
「写真じゃ分からないことって、やっぱりある。」
美羽は湖へ目を向ける。
「ほんと楽しそう。」
「そう見える?」
「子どもみたい。」
鼎は少し照れくさそうに笑った。
「否定はできないな。」
五和は二人のやり取りを聞きながら湖面を見つめていた。
凪は記録帳へ静かにペンを走らせる。
時刻。
風向。
気温。
雲量。
湖面の状態。
一つひとつを丁寧に書き留めていく。
観光客たちは景色を眺めたり、写真を撮ったりしていた。
その様子を見ていると、とても未確認生物の目撃情報があった湖には思えない。
その時だった。
「皆さん、右手をご覧ください。」
船内放送が流れる。
船長がマイクを持ち、湖の中央を指差した。
「あちらが、この野霧湖で最も深い場所になります。」
「昔から、この辺りでは大きな影を見たという話が残っています。」
船内に小さなどよめきが広がる。
子どもたちが身を乗り出し、大人たちも笑いながら湖を見つめる。
「もちろん、本当にいるかどうかは分かりません。」
「でも、この湖へ来たら一度は聞く話ですね。」
鼎は興味深そうに湖を見つめる。
五和が短く言う。
「静かにしろ。」
その声色は、いつもと少し違っていた。
鼎は表情を引き締める。
凪も顔を上げる。
二人の視線は同じ一点へ向けられている。
湖面だった。
風は吹いている。
それなのに。
一か所だけ、水面が不自然に揺れていた。
波紋とも違う。
魚が跳ねたようにも見えない。
細く。
長く。
何かが水の下を滑っているようだった。
鼎は目を凝らす。
「……魚ですかね。」
五和は答えない。
凪は静かに双眼鏡を取り出した。
しばらく湖面を見つめる。
やがて双眼鏡を下ろし、小さく記録帳へ何かを書き込んだ。
「凪さん。」
鼎が声を掛ける。
「何か見えましたか?」
凪は首を横へ振る。
「分かりません。」
「ですが。」
「記録します。」
それだけだった。
五和も湖面から目を離さない。
「まだ決めつけるな。」
「観測を続ける。」
その言葉を聞いた鼎は、もう一度湖を見つめた。
さっきまであった波は、もう消えている。
風だけが静かに湖面を撫でていた。
その時。
隣で景色を眺めていた美羽の表情が固まる。
「……え。」
小さな声だった。
鼎が振り向く。
「どうした?」
美羽は湖の一点を見つめたまま、ゆっくりと呟いた。
「ここ……。」
息を呑む。
「ここだった……。」
しばらく湖面を見つめたまま、小さく続ける。
「私、来たことある。」
「この場所。」
その声には、さっきまでとは違う緊張が滲んでいた。
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次回更新は13日0時予定です。




