20 湖の記憶
車は湖畔の駐車場へ入り、ゆっくりと停まった。
エンジンが切れる。
それまで車内を満たしていた低い音が消え、代わりに蝉の声が聞こえてきた。
鼎はドアを開ける。
夏の風が、少し湿った空気を運んでくる。
車から降りると、目の前には野霧湖が広がっていた。
陽の光を受けた水面が、静かに揺れている。
遠くには小さな船が浮かび、その向こうを山々が囲んでいた。
「……変わらないな。」
思わず言葉が漏れた。
父と来た頃と同じ湖。
ここで五和と出会った時とも、何も変わっていない。
少なくとも。
見えている景色だけは。
五和は車の後部を開け、双眼鏡と資料の入った鞄を取り出す。
凪は周辺地図を広げ、湖畔と遊覧船の航路を確認していた。
美羽は少し離れた場所に立ち、湖を見つめている。
いつもの明るい表情はなかった。
五和は湖面へ目を向ける。
「先に周囲を確認する。」
凪が小さく頷いた。
「次の遊覧船までは、まだ時間があります。」
「その前に、現地で話を聞きましょう。」
⸻
四人は遊覧船乗り場へ向かった。
湖畔には観光客の姿が多い。
子どもたちの笑い声。
売店から漂う甘い匂い。
乗船を待つ人々の話し声。
湖の主にまつわる伝承が残る場所とは思えないほど、穏やかな風景だった。
受付では、中年の男性が乗船券を確認していた。
凪は軽く会釈をする。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか。」
「最近、この湖で変わったことはありませんでしたか。」
男性は手を止め、少し考え込む。
「変わったこと……ですか。」
「そうですね。」
「先週、お客さんが湖の中央で大きな影を見たって騒いでました。」
鼎が顔を上げる。
「影?」
「ええ。」
「船より少し離れた場所を、細長い何かが泳いでいたって。」
「魚じゃないかって人もいましたけどね。」
男性は苦笑した。
「昔から、この辺じゃ湖の主なんて話もありますから。」
「その話は、今でも残っているんですか?」
凪が尋ねる。
「残ってますよ。」
「湖の主を見た者は帰ってこない。」
「霧の日は湖へ近付くな。」
「水底へ連れていかれる。」
「まあ、観光地によくある昔話ですよ。」
その時。
近くの売店で土産物を並べていた年配の女性が、振り返った。
「よくある話で片付けるもんじゃないよ。」
男性は困ったように笑う。
「また始まった。」
「昔から言われてきたことには、何かしら理由があるもんさ。」
女性は湖へ目を向けた。
「私が子どもの頃はね。」
「霧の日は、水辺へ行くなって何度も言われた。」
「主に見つかったら、帰れなくなるって。」
美羽の肩が、わずかに動いた。
鼎はその変化に気付いたが、何も言わなかった。
「そう語り継がれてきたんですね。」
凪が言う。
女性はすぐには答えなかった。
「そう語る人が多かったってだけだよ。」
「多かった?」
「同じ湖でも、人によって見たものは違う。」
「祖母は、そう言ってた。」
「ほかにも話があるんですか?」
鼎が尋ねる。
女性は少し考えたあと、首を横へ振った。
「さあね。」
「昔の話なんて、語る人がいなくなれば消えていく。」
「残った話が、全部だとは限らないよ。」
それだけ言うと、女性は再び土産物を並べ始めた。
鼎は女性の背中を見送った。
父のノートにも、同じように『伝承に食い違い』とだけ残されていた。
それが、ただの偶然とは思えなかった。
鼎は湖へ目を向ける。
「……また食い違ってる。」
凪は静かに頷いた。
「だから観測するのです。」
「どれか一つを正しいと決めるためではありません。」
「何が語り継がれてきたのか。」
「何を見て、そう語ったのか。」
「それを観測するためです。」
五和は乗り場の先に広がる湖を見つめていた。
「話だけで終わらせるな。」
「現場を見る。」
⸻
五和は湖岸へ近付いた。
水辺へしゃがみ込み、岸に残された跡を確認する。
凪は双眼鏡を取り出し、湖面を端から端までなぞるように観察していた。
鼎もその隣から湖を見渡す。
風に揺れる水面。
遠くを進む船。
岸辺を泳ぐ小さな魚。
目立った異変はない。
「何を見てるんですか?」
鼎が尋ねる。
「普段と違うものだ。」
五和は立ち上がる。
「だが、違いを知るには普段を知らなければならない。」
凪は記録帳へ書き込む。
時刻。
天候。
風向。
湖面の状態。
周囲の人の数。
「今のところ、異常は確認できません。」
「なら次だ。」
五和が答える。
鼎は二人の様子を見ながら、改めて思う。
湖の主を探しているわけではない。
異変だけを見ようとしているわけでもない。
何も起きていない今を、記録している。
それも観測なのだ。
⸻
「そういえば。」
鼎は地図を畳んでいる凪へ声を掛けた。
「どうして今回、俺と美羽だったんですか?」
凪は地図を鞄へ戻しながら答える。
「理由は単純です。」
「お二人とも、この場所と関わりがあるからです。」
鼎は父のノートが入った鞄へ目を落とす。
「俺は、父さんか。」
「はい。」
「千曲さんのお父様は、野霧湖について繰り返し記録を残しています。」
分かっていた答えだった。
だが。
改めて言葉にされると、胸の奥に重いものが残る。
鼎は隣へ目を向けた。
美羽は少し離れた場所で、まだ湖を見ていた。
「じゃあ、美羽は?」
その一言に、美羽の肩がわずかに動いた。
凪はすぐには答えなかった。
「安曇さんから、直接話していただく方がよいでしょう。」
美羽は小さく息を吐く。
「やっぱり、話さなきゃ駄目?」
「強制はしません。」
凪が答える。
五和も荷物を持ったまま、美羽を見る。
「話すかどうかは、お前が決めろ。」
「そういう言い方、ずるいですよね。」
「そうか。」
「そうです。」
美羽は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「……歩きながらでもいい?」
鼎は頷く。
「ああ。」
⸻
四人は湖畔の遊歩道を歩き始めた。
木々の間から湖が見える。
水面を渡る風が、葉を静かに揺らしている。
観光客の話し声。
子どもたちの笑い声。
遊覧船乗り場から聞こえる案内放送。
どこにでもある、夏の観光地だった。
「私、ここに来るの初めてじゃないんだ。」
美羽が前を向いたまま言う。
「小さい頃、家族で来たことがある。」
「何歳くらい?」
「たぶん、六歳か七歳。」
美羽は少し考える。
「そのくらいだったと思う。」
「お兄ちゃんと一緒に、湖の近くを歩いてた。」
「でも途中で、はぐれたんだ。」
鼎は黙って話を聞く。
「最初は、すぐ見つかると思ってた。」
「人もたくさんいたし。」
「お兄ちゃんの名前を呼べば、戻ってくると思ってた。」
美羽の歩く速度が少しだけ遅くなる。
「でも。」
「誰も気付かなかった。」
「誰も?」
「うん。」
美羽は自分の腕を抱く。
「近くに人はいた。」
「声も聞こえてた。」
「なのに、私が呼んでも誰も振り向かない。」
「目の前を通っても、誰も見てくれなかった。」
遊歩道を歩く人たちの声が、急に遠くなったように感じた。
「それで霧が出てきた。」
鼎は父のノートを思い出す。
――霧は隠すためではない。
「急に?」
「気付いたら、周りが白くなってた。」
「湖も、人も、道も見えなくなって。」
「ずっと一人で歩いてた。」
「どれくらい?」
美羽は首を横へ振る。
「分からない。」
「すごく長かった気もする。」
「でも。」
美羽は湖へ目を向ける。
「家族に見つかった時は、十分くらいしか経ってなかったって言われた。」
鼎は試験で起きた時間のずれを思い出した。
同じ道を歩いたはずなのに、時計は誰一人として一致しなかった。
「それだけじゃないんだろ。」
鼎が言うと、美羽は少しだけ目を見開いた。
「なんで?」
「野霧湖の名前を聞いた時から、ずっと何か隠してる顔してた。」
「そんなに分かりやすかった?」
「少し。」
「やだなぁ。」
美羽は困ったように笑う。
しばらく歩いてから、再び口を開いた。
「霧の中で。」
「湖に、何かいた。」
鼎の足が止まりかける。
美羽はそのまま続ける。
「水の上に、大きな影が見えた。」
「魚とか、そういう大きさじゃなかった。」
「湖の下を、ゆっくり動いてた。」
「それが何だったのかは分からない。」
「でも。」
美羽の声がわずかに震える。
「こっちを見てた気がした。」
風が止まった。
湖面が一瞬だけ静かになる。
鼎は水の向こうへ目を向けた。
何もない。
ただ、光を反射する湖が広がっている。
「家族には?」
「言ってない。」
「どうして?」
「言えるわけないじゃん。」
美羽は笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「迷子になって。」
「誰にも気付いてもらえなくて。」
「湖に大きな何かがいたなんて。」
「子どもの作り話だって思われるだけでしょ。」
「それに。」
美羽は少し俯く。
「大人になると、自分でも分からなくなるんだよ。」
「あれは本当にあったのか。」
「夢だったのか。」
「怖かったから、勝手に作った記憶なのか。」
その言葉に、鼎はすぐには答えなかった。
父のノート。
境界。
消えた記憶。
自分にも、似たようなものがある。
だから。
簡単に「信じる」とは言えなかった。
簡単に「勘違いだ」とも言いたくなかった。
「じゃあさ。」
鼎が口を開く。
美羽が顔を上げる。
「今日、確かめればいいんじゃないか。」
「え?」
「本当に見たのか。」
「見間違いだったのか。」
「どっちでもいい。」
「どっちでも?」
「ああ。」
鼎は少しだけ笑う。
「見間違いだったら、昔の自分を笑えばいい。」
「本当に見てたなら、それも分かる。」
「どっちに転んでも、今よりはスッキリするだろ。」
美羽は呆れたように鼎を見る。
「そんな簡単に言う?」
「簡単じゃないから、ここまで来たんだろ。」
美羽は言葉を失う。
鼎は湖を見た。
「モヤモヤしたまま何年も抱える方が、俺は嫌だ。」
「だから。」
「せっかく来たんだ。」
「今日はハッキリさせて帰ろうぜ。」
しばらく、美羽は何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「千曲ってさ。」
「ん?」
「たまに、変なこと言うよね。」
「たまに?」
「そこ気にする?」
美羽は少し笑った。
今度の笑顔は、さっきより自然だった。
「でも。」
「ありがと。」
その言葉は、湖から吹く風に混ざるように小さかった。
⸻
「話は終わったか。」
少し前を歩いていた五和が振り返る。
「聞いてたんですか?」
美羽が言う。
「聞こえていた。」
「最悪。」
「声が大きい。」
「千曲も喋ってたじゃないですか。」
「俺を巻き込むな。」
凪が小さく咳払いをする。
「遊覧船の時刻があります。」
「次の便まで五分です。」
話を戻すような声だった。
四人は遊覧船乗り場へ向かう。
入口には野霧湖の案内図が立っていた。
遊覧船の航路。
展望台。
湖畔の散策路。
そして、過去に目撃情報があった地点。
凪は地図の上へ指を置く。
「今回の目撃地点は、この付近です。」
湖の中央より、やや北側。
陸からでは見えにくい場所だった。
「陸上からの観測では、異常は確認できませんでした。」
「次は船上から確認します。」
五和は湖を見つめる。
「天気は。」
「今のところ問題ありません。」
凪が答える。
「霧も出ていません。」
美羽はその言葉に反応するように、湖へ目を向けた。
鼎も同じ方向を見る。
静かな水面。
観光客を乗せた遊覧船が、ゆっくりと岸へ近付いてくる。
その船の後ろ。
水面に一本だけ、不自然な波が伸びていた。
風ではなかった。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。




