19 野霧湖へ
「……ふぁあぁ。」
大きなあくびが漏れる。
鼎は眠そうに目をこすりながら、公民館の駐車場へ入っていった。
夏の朝。
空は雲ひとつない青空だった。
蝉の鳴き声が、朝の静かな住宅街へ響いている。
「眠そう。」
後ろから声がした。
振り向く。
美羽だった。
リュックを肩に掛け、こちらを見て笑っている。
「おはよう。」
「おはよう……。」
「昨日ちゃんと寝た?」
「寝た。」
「今の間は?」
「気のせいだ。」
「絶対寝てないじゃん。」
美羽が笑う。
鼎は人差し指を立てた。
「あくびというのはな、人間が――」
「始まった。」
「――最後まで聞かんか!」
「そこだけ元気。」
二人は思わず笑ってしまう。
⸻
駐車場には一台の白いワゴン車が停まっていた。
どこにでもありそうな車だ。
派手なロゴもなければ、組織名も書かれていない。
だが、後部には資料ケースや救急箱、長靴、双眼鏡などが整然と積まれていた。
「これ……。」
「アカライの観測車両。」
振り向くと、凪が資料を抱えて立っていた。
「調査内容によって使い分けています。」
「思ったより普通なんだな。」
鼎が言うと、五和が車の鍵を開けながら答えた。
「目立たない方がいい。」
それだけだった。
だが、その一言にアカライらしさが詰まっている気がした。
⸻
運転席へ五和が座る。
助手席には凪。
後部座席へ鼎と美羽が乗り込んだ。
ドアが閉まる。
静かにエンジンがかかった。
住宅街を抜け、車はゆっくりと町を走り始める。
⸻
「では。」
助手席で凪が資料を開いた。
「今回の調査内容を説明します。」
車内の空気が少しだけ引き締まる。
「目的は三つです。」
「一つ目。」
「目撃情報の確認。」
「二つ目。」
「周辺地域の聞き取り調査。」
「三つ目。」
「境界との関連性があるかどうかの観測。」
鼎は静かに聞いていた。
凪は続ける。
「今回の目撃情報は一件のみです。」
「現時点では大型生物だったという証言以外、確かな情報はありません。」
「そのため。」
「存在を証明することも。」
「否定することも。」
「今回の目的ではありません。」
五和が前を向いたまま言う。
「決めつけるな。」
短い一言だった。
鼎は頷く。
父も同じだった。
信じる前に調べる。
否定する前に観る。
それが父であり、アカライだった。
⸻
「質問いいですか?」
美羽が手を挙げた。
「どうぞ。」
「もし、本当にいたら?」
一瞬だけ車内が静かになる。
凪が答えた。
「追いません。」
「刺激しません。」
「必要以上に近付きません。」
「まず全員の安全を優先してください。」
五和が続ける。
「観測できれば十分だ。」
美羽は小さく頷いた。
「なんか。」
「急に緊張してきた。」
鼎が笑う。
「さっきまで笑ってたのに。」
「だってさ。」
「ドライブだと思ってた。」
「遊びじゃないぞ。」
「分かってるって。」
そう言いながらも、美羽は少しだけ窓の外を見つめていた。
⸻
町並みが少しずつ途切れていく。
建物が減り、木々が増える。
道はゆるやかに山へ向かっていた。
車内の会話も自然と少なくなる。
凪は資料を閉じた。
五和は黙ったままハンドルを握る。
美羽は流れていく景色を眺めていた。
鼎も窓の外へ目を向ける。
昔、この道を父と走ったことがあった。
その時は、ただ湖へ遊びに行くものだと思っていた。
まさか、こんな形でもう一度訪れるとは思わなかった。
⸻
やがて、一枚の青い標識が見えてくる。
野霧湖 →
五和は静かにウインカーを出した。
車は山道を曲がる。
木々の隙間から、陽の光を受けた湖面が一瞬だけ姿を見せた。
美羽は息を呑む。
鼎も言葉を失った。
静かな湖だった。
子どもの頃と変わらない景色。
それでも今は、まったく違って見える。
車はゆっくりと湖畔の駐車場へ入っていった。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。




