18 調査
資料室を出ると、廊下には穏やかな空気が流れていた。
窓の外では蝉が鳴き続けている。
ほんの数分前まで父のノートを見ていたせいか、同じ景色なのに少しだけ違って見えた。
五和は歩きながら言う。
「今回の件は、まだ境界と決まったわけじゃない。」
鼎は頷く。
「大型生物を見たっていう話だけなんだよな。」
「ああ。」
「だから調べる。」
「決めつけない。」
その一言に、父の姿が重なった。
昔話だから信じるのではない。
嘘だから否定するのでもない。
まず見に行く。
それがアカライだった。
⸻
二人が廊下を歩いていると、公民館の玄関から聞き覚えのある声が聞こえた。
「こんにちはー。」
振り向く。
そこに立っていたのは、美羽だった。
「あ。」
美羽も鼎に気付く。
「千曲じゃん。」
「美羽。」
「お、ちゃんと名前で呼んだ。」
美羽は嬉しそうに笑う。
「どうした?」
「私も呼ばれた。」
そう言ってスマートフォンを見せる。
『時間があるなら来てください。』
送信者は凪だった。
「試験終わったばっかりなのにね。」
美羽は肩をすくめる。
そこへ五和が静かに口を開く。
「来たか。」
「来ました。」
「今回は道に迷わなかったようだな。」
「迷ってません。」
美羽は胸を張る。
五和は少し間を置いて言った。
「……五分だけ。」
「それは迷ってないです!」
美羽が頬を膨らませる。
思わず鼎は吹き出した。
「十分迷ってるだろ。」
「千曲まで!」
三人の間に、小さな笑いが広がる。
その時だった。
「来ましたか。」
凪が奥の廊下から姿を現した。
試験の時の張り詰めた空気はなく、どこか穏やかな雰囲気だった。
「二人とも、お疲れさまでした。」
「改めて、合格おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
鼎と美羽は軽く頭を下げる。
凪は美羽へ目を向ける。
「安曇さん。」
「はい。」
「今日は試験ではありません。」
「肩の力を抜いてください。」
美羽は苦笑する。
「そう言われると、逆に緊張します。」
凪も小さく笑った。
「普段通りで構いません。」
「準備ができています。」
「会議室へお願いします。」
⸻
会議室には長机が並び、壁いっぱいに大きな地図が貼られていた。
机の上には地域ごとにまとめられた資料。
航空写真。
古い新聞記事。
何冊ものファイルが静かに並べられている。
五和は窓際の席へ腰を下ろした。
凪は机の中央へ一枚の地図を広げる。
鼎と美羽も向かい合うように席へ着いた。
自然と部屋が静かになった。
「今回、お二人に同行していただく調査地点はこちらです。」
凪の指が地図の一点を示す。
野霧湖。
鼎の胸が静かに高鳴る。
父が最後まで追い続けた場所。
そして、自分と五和が出会った場所。
隣では、美羽も地図を見つめていた。
ほんの一瞬だけ。
その表情が曇る。
だが、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
鼎はその変化に気付いたが、何も聞かなかった。
⸻
凪は一枚の資料を手に取る。
「地域住民から、大型生物らしき影の目撃情報が寄せられました。」
「現時点では、正体は不明です。」
「境界との関連も確認されていません。」
静かな声だけが部屋に響く。
「皆さんにお願いするのは、見つけることではありません。」
「観ることです。」
その言葉に、鼎は試験の日を思い出した。
――異変を探そうとするな。
あの言葉の意味が、少しずつ繋がっていく。
「調査は明日の朝から行います。」
「今日は資料を確認し、準備だけ済ませてください。」
凪はそう言って資料を二人へ渡した。
⸻
鼎は野霧湖周辺の資料へ目を通した。
古い新聞記事。
郷土史の抜粋。
観光案内。
その中には、昔から語り継がれてきた伝承もまとめられていた。
『湖の主を見た者は帰らなかった。』
『霧の日は湖へ近付くな。』
『人を水底へ引き込む。』
ページをめくる。
その隣には、小さく注釈が添えられていた。
『一方で、別の伝承も残る。』
『内容は一致していない。』
鼎は思わず眉をひそめる。
「……また食い違ってる。」
凪は静かに頷いた。
「伝承は、一つではありません。」
「だから私たちは観測します。」
「結論を決めるためではなく。」
「何が語り継がれてきたのかを知るためです。」
鼎は静かに資料へ視線を戻した。
父のノート。
そして今、目の前の資料。
そこには同じ違和感が残されていた。
⸻
一方、美羽は一枚の白黒写真を見つめていた。
湖面へ薄く立ち込める霧。
その写真から、なかなか目を離そうとしない。
「美羽。」
鼎が声を掛ける。
美羽は我に返ったように顔を上げる。
「あ、ごめん。」
「何でもない。」
そう笑う。
だが、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。
鼎はそれ以上聞かなかった。
⸻
会議室の窓から見える山々は、夕日に照らされ始めていた。
その稜線には、白く細い霧が静かに流れている。
五和はその景色を見つめ、小さく呟いた。
「……晴れる前に着ければいいが。」
鼎は窓の外へ目を向けた。
山を包む霧。
父のノート。
食い違う伝承。
そして、野霧湖。
それらが一本の線で繋がり始めている気がした。
まだ、その意味は分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
伝承は、まだ物語の入り口に過ぎなかった。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。




