17 霧
鼎は首をかしげた。
「……え?」
五和は野霧湖のページを見つめたまま、静かに口を開く。
「試験を受ける前なら、このページはただの走り書きにしか見えなかったはずだ。」
鼎は小さく頷いた。
「はい。」
「今も全部は分かりません。」
「でも。」
「父さんが何を残そうとしていたのか。」
「少しだけ、考えるようになりました。」
五和はゆっくりとノートを閉じる。
「それでいい。」
「境界は知識じゃない。」
「見方だ。」
短い言葉だった。
だが、不思議と胸へ落ちてくる。
橋。
道祖神。
神社。
試験で歩いた町は何一つ変わっていなかった。
変わったのは、自分だった。
五和はノートへもう一度視線を落とす。
「……相変わらずだな。」
「え?」
「必要なことしか書かん。」
鼎は思わず笑った。
「父さんらしいんですか?」
「ああ。」
五和もわずかに口元を緩める。
「昔からそうだった。」
「聞けば答える。」
「だが、自分からはほとんど話さん。」
「だからノートもこうなる。」
鼎は静かにノートへ手を添えた。
父がそこにいた時間が、少しだけ近く感じた。
「来い。」
五和は立ち上がる。
鼎はノートを抱え、その後を追った。
⸻
廊下を進む。
試験の日には通らなかった奥の通路だった。
一枚の扉が開いている。
中を覗いた鼎は思わず足を止めた。
「……すごい。」
部屋いっぱいに棚が並んでいた。
古い地図。
郷土史。
新聞の切り抜き。
白黒写真。
古びた手帳。
土地ごとに整理された分厚いファイル。
棚には小さな札が掛けられている。
北地区。
東地区。
西地区。
N県。
さらに奥には、
調査中。
観測終了。
未整理。
と書かれた棚まであった。
まるで図書館と郷土資料館が一つになったような部屋だった。
誰かが静かに資料を整理している。
別の机では、一人の女性が電話を受けていた。
「はい。」
「場所はどちらになりますか。」
「……分かりました。」
「担当へ回します。」
受話器を置くと、慣れた手つきで一枚の書類を書き始める。
その隣では、中年の男性が壁いっぱいの地図へ新しい印を付けていた。
「先月と同じ地域ですね。」
「過去記録も出しておきます。」
誰も大声を出さない。
誰も慌てない。
静かな空気の中で、それぞれが自分の仕事を続けている。
鼎は部屋をゆっくり見回した。
「……こういう仕事もしてるんですね。」
五和は棚へ視線を向ける。
「境界は、人の暮らしの隣にある。」
「だから話も、人の暮らしから集まる。」
「全部が境界とは限らない。」
「だが。」
「最初から違うと決めつけることもしない。」
その言葉に、父の声が重なる。
――最初から嘘だって決めつけたら、本当にあったものまで見落とす。
鼎は静かに頷いた。
父は一人で調べていた。
だが今は違う。
同じように記録を残し、土地を歩き、人の話を聞き続ける者たちがいる。
そのことが少しだけ嬉しかった。
⸻
コン、コン。
部屋の扉が叩かれる。
「失礼します。」
凪だった。
試験の時の張り詰めた空気はなく、いつも通りの落ち着いた表情をしている。
「鼎さん。」
「改めて、合格おめでとうございます。」
「あ……ありがとうございます。」
凪は小さく頷くと、五和へ一枚の書類を差し出した。
「観測受付票です。」
五和は紙を受け取る。
静かに目を通した。
⸻
観測受付票
受付番号 AK-0264
発生地域
N県 ○○市
野霧湖
概要
湖面にて大型生物らしき影の目撃報告。
地域住民一名。
過去記録との照合を推奨。
⸻
五和は書類を机へ置く。
父のノートを開く。
野霧湖。
同じ場所。
同じページ。
部屋に静かな沈黙が流れた。
「……偶然とは思えんな。」
鼎は思わず息を呑む。
「父さんのノートと……。」
「ああ。」
五和は短く答える。
「時期まで近い。」
凪も静かにノートを見つめていた。
「霧は。」
五和が尋ねる。
「まだ薄いそうです。」
凪が答える。
「灯りは。」
「不要かと。」
鼎は二人を見た。
「……霧?」
二人の視線が鼎へ向く。
五和は小さく笑った。
「そのうち分かる。」
それ以上は語らない。
その言葉だけが部屋に残った。
⸻
窓の外では、夏の風が木々を揺らしていた。
遠くの山並みには、白く細い霧が静かに流れている。
鼎は父のノートを見つめた。
野霧湖。
父が最後まで追い続けた場所。
そして今。
アカライにも、同じ場所から新しい記録が届いた。
偶然ではない。
そんな気がした。
五和は静かにノートを閉じる。
「少し、現地を見てくる必要があるな。」
鼎は静かに頷いた。
野霧湖への道は、もう始まっていた。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。




