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Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。  作者: 赤足
第二章 伝承編 野霧湖

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17/68

17 霧

鼎は首をかしげた。


「……え?」


 五和は野霧湖のページを見つめたまま、静かに口を開く。


「試験を受ける前なら、このページはただの走り書きにしか見えなかったはずだ。」


 鼎は小さく頷いた。


「はい。」


「今も全部は分かりません。」


「でも。」


「父さんが何を残そうとしていたのか。」


「少しだけ、考えるようになりました。」


 五和はゆっくりとノートを閉じる。


「それでいい。」


「境界は知識じゃない。」


「見方だ。」


 短い言葉だった。


 だが、不思議と胸へ落ちてくる。


 橋。


 道祖神。


 神社。


 試験で歩いた町は何一つ変わっていなかった。


 変わったのは、自分だった。


 五和はノートへもう一度視線を落とす。


「……相変わらずだな。」


「え?」


「必要なことしか書かん。」


 鼎は思わず笑った。


「父さんらしいんですか?」


「ああ。」


 五和もわずかに口元を緩める。


「昔からそうだった。」


「聞けば答える。」


「だが、自分からはほとんど話さん。」


「だからノートもこうなる。」


 鼎は静かにノートへ手を添えた。


 父がそこにいた時間が、少しだけ近く感じた。


「来い。」


 五和は立ち上がる。


 鼎はノートを抱え、その後を追った。


⸻


 廊下を進む。


 試験の日には通らなかった奥の通路だった。


 一枚の扉が開いている。


 中を覗いた鼎は思わず足を止めた。


「……すごい。」


 部屋いっぱいに棚が並んでいた。


 古い地図。


 郷土史。


 新聞の切り抜き。


 白黒写真。


 古びた手帳。


 土地ごとに整理された分厚いファイル。


 棚には小さな札が掛けられている。


 北地区。


 東地区。


 西地区。


 N県。


 さらに奥には、


 調査中。


 観測終了。


 未整理。


 と書かれた棚まであった。


 まるで図書館と郷土資料館が一つになったような部屋だった。


 誰かが静かに資料を整理している。


 別の机では、一人の女性が電話を受けていた。


「はい。」


「場所はどちらになりますか。」


「……分かりました。」


「担当へ回します。」


 受話器を置くと、慣れた手つきで一枚の書類を書き始める。


 その隣では、中年の男性が壁いっぱいの地図へ新しい印を付けていた。


「先月と同じ地域ですね。」


「過去記録も出しておきます。」


 誰も大声を出さない。


 誰も慌てない。


 静かな空気の中で、それぞれが自分の仕事を続けている。


 鼎は部屋をゆっくり見回した。


「……こういう仕事もしてるんですね。」


 五和は棚へ視線を向ける。


「境界は、人の暮らしの隣にある。」


「だから話も、人の暮らしから集まる。」


「全部が境界とは限らない。」


「だが。」


「最初から違うと決めつけることもしない。」


 その言葉に、父の声が重なる。


 ――最初から嘘だって決めつけたら、本当にあったものまで見落とす。


 鼎は静かに頷いた。


 父は一人で調べていた。


 だが今は違う。


 同じように記録を残し、土地を歩き、人の話を聞き続ける者たちがいる。


 そのことが少しだけ嬉しかった。


⸻


 コン、コン。


 部屋の扉が叩かれる。


「失礼します。」


 凪だった。


 試験の時の張り詰めた空気はなく、いつも通りの落ち着いた表情をしている。


「鼎さん。」


「改めて、合格おめでとうございます。」


「あ……ありがとうございます。」


 凪は小さく頷くと、五和へ一枚の書類を差し出した。


「観測受付票です。」


 五和は紙を受け取る。


 静かに目を通した。


⸻


観測受付票


受付番号 AK-0264


発生地域


N県 ○○市


野霧湖


概要


湖面にて大型生物らしき影の目撃報告。


地域住民一名。


過去記録との照合を推奨。


⸻


 五和は書類を机へ置く。


 父のノートを開く。


 野霧湖。


 同じ場所。


 同じページ。


 部屋に静かな沈黙が流れた。


「……偶然とは思えんな。」


 鼎は思わず息を呑む。


「父さんのノートと……。」


「ああ。」


 五和は短く答える。


「時期まで近い。」


 凪も静かにノートを見つめていた。


「霧は。」


 五和が尋ねる。


「まだ薄いそうです。」


 凪が答える。


「灯りは。」


「不要かと。」


 鼎は二人を見た。


「……霧?」


 二人の視線が鼎へ向く。


 五和は小さく笑った。


「そのうち分かる。」


 それ以上は語らない。


 その言葉だけが部屋に残った。


⸻


 窓の外では、夏の風が木々を揺らしていた。


 遠くの山並みには、白く細い霧が静かに流れている。


 鼎は父のノートを見つめた。


 野霧湖。


 父が最後まで追い続けた場所。


 そして今。


 アカライにも、同じ場所から新しい記録が届いた。


 偶然ではない。


 そんな気がした。


 五和は静かにノートを閉じる。


「少し、現地を見てくる必要があるな。」


 鼎は静かに頷いた。


 野霧湖への道は、もう始まっていた。

今回も読んでくださり、ありがとうございます。

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