16 父のノート
祭りが終わって、数日が過ぎた。
夏の暑さは相変わらずだった。
原付のエンジンをかける。
軽い振動が足元へ伝わり、鼎はゆっくりとアクセルを回した。
住宅街を抜ける。
見慣れた道。
見慣れた橋。
信号待ちで止まると、道路脇に小さな道祖神が立っていた。
試験を受ける前なら、気にも留めなかった景色だった。
だが今は違う。
思わず目が向く。
――境界だと思う場所を記録してください。
凪の言葉が頭をよぎる。
青信号に変わる。
鼎は小さく息を吐き、原付を走らせた。
「……考えすぎか。」
誰に言うでもなく呟く。
それでも、以前とは違って見える景色があった。
⸻
家へ戻ると、部屋は静かだった。
扇風機だけが、ゆっくりと首を振っている。
鼎は机の引き出しを開けた。
一冊のノートを取り出す。
父が残したノートだった。
何度も開いた。
何度読んでも、途中で閉じてしまう。
意味が分からなかったからだ。
ゆっくりとページをめくる。
土地の名前。
昔話。
地図。
そして、小さな走り書き。
『橋』
ページをめくる。
『灯り』
『道祖神』
さらにめくる。
『霧』
鼎の指が止まった。
橋。
道祖神。
灯り。
どれも試験で歩いた町にあった。
あの時は何気なく通り過ぎた景色だった。
今は、その一つひとつに意味があるように思えてしまう。
「……。」
さらにページをめくる。
そこには見慣れた文字があった。
野霧湖
胸の奥が少しだけざわつく。
父と歩いた湖。
父が消えた湖。
そして。
五和と出会った湖。
その下には、父の字で短く書かれていた。
ページの余白には、小さな走り書きが残されていた。
『湖の主』
『人を喰らうという話あり』
『見た者は帰らなかったという伝承』
『守り神と語る者もいる』
『伝承に食い違い』
鼎は眉をひそめる。
「……食い違い?」
最後の一行だけ、滲んで読めない。
鼎はしばらく、そのページを見つめていた。
試験を受ける前なら。
きっと意味の分からない言葉として閉じていただろう。
でも今は違う。
全部は分からない。
それでも。
父が何を見ていたのか。
少しだけ、その先を覗ける気がした。
「……五和さん。」
自然と名前が口をついて出る。
一人で考えても答えは出ない。
鼎はノートを閉じた。
⸻
再び原付へ跨る。
アカライのある公民館までは、それほど遠くない。
町を走る。
橋を渡る。
神社の前を通る。
以前と変わらない町。
それなのに。
試験を終えてから、見える景色だけが少し変わっていた。
公民館へ着く。
玄関では見慣れた車が停まっている。
中からは誰かの話し声が聞こえた。
鼎はノートを抱え、静かに扉を開ける。
試験の日とは違う空気が流れていた。
古い資料を運ぶ人。
電話で誰かと話す人。
壁いっぱいに貼られた地図。
ここが、アカライの日常。
鼎は小さく笑う。
「……本当に入ったんだな。」
そのまま廊下を歩き、五和の部屋の前で立ち止まる。
軽くノックをした。
「入れ。」
聞き慣れた声だった。
鼎は扉を開ける。
「五和さん。」
「少し、見てもらいたいものがあります。」
ノートを机の上へ置く。
五和は何も言わず、それを手に取った。
ページをめくる。
一枚。
また一枚。
そして、野霧湖のページで手が止まる。
ほんのわずかに目を細める。
「……そこを開いたか。」
鼎は首をかしげた。
「え?」
五和はノートから目を離さない。
静かな部屋に、ページをめくる音だけが響いていた。
新章スタートです。
今回も読んでくださり、ありがとうございます。




