11 記憶
町へ出た受験者たちは、それぞれ異なる方向へ散っていった。
一人で歩き始める者。
近くにいた者同士で話し合う者。
地図を開いたまま、体育館の前から動けずにいる者。
鼎もまた、しばらくその場に立っていた。
地図には、いくつかの目印が記されている。
神社。
橋。
古いトンネル。
道祖神。
だが、どこから調べろとは書かれていない。
「境界だと思った場所を記録しろ、か……」
境界を見た経験ならある。
ただ、あの山で鼎にできたのは、五和の後ろを歩くことだけだった。
止まれと言われれば止まり、見るなと言われれば目を逸らす。
自分で境界を見つけろと言われても、何を基準にすればいいのか分からない。
鼎は地図の中から、最も近い印を選んだ。
道祖神。
体育館から歩いて十分ほど。
理由はなかった。
少なくとも、地図の上では近かった。
住宅地へ入る。
古い家と新しい家が入り交じった、ごく普通の町並みだった。
庭先では洗濯物が揺れている。
子どもたちが自転車で走り抜ける。
開け放たれた窓からテレビの音が漏れ、どこかの家からは醤油の甘い匂いが漂っていた。
境界と呼べるようなものは、どこにも見当たらない。
電柱。
側溝。
細い路地。
空き家。
錆びた看板。
閉じたままの雨戸。
怪しいと思えば、どれも怪しく見えた。
そのたびに、体育館で聞いた凪の言葉が頭をよぎる。
――異変を見つけようとするな。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「そっち、道祖神の方?」
後ろから声がした。
振り返ると、一人の女性が立っていた。
肩まで伸びた明るい髪。
体育館にいた受験者の一人だ。
地図を片手に、鼎の隣へ並ぶ。
「たぶん」
「たぶんって何?」
「俺も地図を見て歩いてるだけだから」
「そっか。じゃあ同じだ」
女性は気軽に笑った。
「安曇美羽。よろしく」
「千曲鼎」
「ちくま、かなえ?」
「ああ」
「へえ、珍しい名前。なんか格好いいじゃん」
「そうか?」
「一回聞いたら忘れなさそう」
美羽はそう言って、もう一度地図へ目を戻した。
「これさ、みんな別々に行けって意味なのかな」
「何も言われてない」
「じゃ、一緒でもいいってことじゃん」
「試験なのに?」
「駄目なら最初に言うでしょ」
美羽はそのまま先へ歩き出した。
鼎は少し迷った末、その後を追った。
数分歩くと、道の脇に小さな石像が見えた。
二体の人影が、寄り添うように彫られている。
表面は風雨に削られ、顔はほとんど分からない。
足元には、枯れかけた花と、日に焼けた空き缶が置かれていた。
「これかな」
美羽が石像の前でしゃがみ込む。
「道祖神って、もっとお地蔵さんみたいなの想像してた」
「場所によって違うんじゃないか」
「詳しい?」
「全然」
「知ったかじゃん」
「違うだろ」
美羽が笑った。
鼎は報告書を取り出した。
日時。
場所。
観測したこと。
何を書けばいい。
道祖神がある。
石が古い。
顔が削れている。
二体並んでいる。
足元に花がある。
どこまでが観測で、どこからが解釈なのか。
「何か分かった?」
「いや」
「私は分かった」
美羽が立ち上がる。
「古い」
「見れば分かる」
「あと、ちょっと怖い」
「それは感想だろ」
「感想も観測じゃないの?」
鼎は答えられなかった。
美羽が怖いと感じたこと自体は事実なのかもしれない。
だが、それは道祖神が怖いものだという意味にはならない。
鼎は報告書に書いた。
道沿いに石像が二体ある。
表面は摩耗している。
足元に枯れた花がある。
向きは南側。
「向きまで書くんだ」
「何か変わったとき、分かるかもしれない」
「異変探してるじゃん」
鼎は鉛筆を止めた。
「……そうなるのか?」
「知らないけど」
「それ、南を向いてないぞ」
背後から声がした。
振り返る。
短い髪の女性が立っていた。
体育館で前方に座っていた受験者だ。
「道路側を向いてる」
女性は道祖神を一瞥し、報告書へ何かを書き込んだ。
「道路は南側だろ」
鼎は地図を見る。
「この道、東西に走ってる」
女性が言った。
鼎は太陽の位置を確認した。
自分たちが歩いてきた方向。
地図に記された川。
考えるほど、方角が分からなくなっていく。
「松本葵」
女性はそれだけ名乗った。
「二人とも、体育館にいたよね」
美羽が言う。
「ああ」
「一緒に回る?」
「別にいい」
素っ気ない答えだったが、葵はその場を離れなかった。
三人で地図を広げる。
「この道が東西なら、私たちはこっちから来たことになる」
葵が地図を指す。
「でも、そこは川じゃない?」
美羽が言った。
地図では、鼎たちが歩いてきた方向に川が流れている。
だが、川を渡った記憶はない。
「道を間違えたんじゃないか」
鼎が言う。
「曲がってないよ」
美羽は即座に否定した。
「ずっと真っすぐだった」
「一回、細い道を通った」
「通ってないって」
「通った」
「え、本気?」
二人は顔を見合わせた。
美羽が嘘をついているようには見えない。
鼎にも、嘘を言っているつもりはなかった。
古い木造の家。
壁に立てかけられた錆びた自転車。
家と家の間を抜ける細い路地。
日陰に生えた湿った苔。
濡れた土の匂い。
確かに通ったはずだ。
「二人とも違う道から来たんじゃないの」
葵が言う。
「途中で会ってから、ずっと一緒だった」
「なら、どちらかが間違えてる」
「私じゃないし」
「俺だって」
言い返した瞬間、五和の声が脳裏に蘇った。
――記憶を信じるな。
鼎は口を閉じた。
自分が覚えていることと、実際に起きたことが同じとは限らない。
美羽の記憶が間違っているとも限らない。
「どうしたの?」
「いや……」
鼎は地図を畳んだ。
「どっちが正しいか、今は決めない方がいい」
「なんで?」
「分からないから」
美羽は納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。
そのとき、向こうから一人の青年が歩いてきた。
鼎より少し年下に見える。
黒い髪に、白いシャツ。
目立つ服装ではない。
それなのに、三人の視線が自然と青年へ向いた。
歩き方が静かだった。
足音を立てないようにしているわけでもないのに、近づいてくるまで誰も気づかなかった。
青年は道祖神の前で足を止めた。
「ここを調べに来たの?」
美羽が声をかける。
「はい」
青年は小さく頭を下げた。
「秋山清次郎です」
「千曲鼎」
「安曇美羽」
「松本葵」
美羽が三人を順番に示した。
秋山はもう一度、丁寧に会釈した。
若い顔をしているのに、仕草だけが妙に落ち着いていた。
覗き込むでもなく、周囲を調べるでもない。
しばらく石像を見てから、報告書を取り出した。
「何か分かりました?」
鼎が尋ねた。
「いいえ」
秋山は短く答えた。
「何も」
鉛筆が紙の上を走った。
書き終えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。
「何て書いたの?」
美羽が尋ねる。
「道祖神がある、と」
「それだけ?」
「今のところは」
秋山は報告書を閉じた。
物足りない答えのはずだった。
だが、その言い方に迷いはなかった。
鼎は自分の報告書を見る。
石像の向き。
花の状態。
道路との位置関係。
書き込んだ文字が、急に余計なもののように見えた。
「向き、さっきと違わない?」
葵が道祖神を見ながら言った。
美羽も石像の正面へ回り込む。
「え、そう?」
「道路側を向いていたと思う」
「俺は最初から南側だと思ってた」
鼎は報告書を確認した。
向きは南側。
確かに、自分の字でそう書かれている。
だが、いつ方角を確認したのか思い出せなかった。
太陽を見た。
地図も見た。
それだけだったような気もする。
「道路側と南側って、同じじゃなかった?」
美羽が地図を広げる。
「この道が東西なら違う」
葵が答えた。
「じゃあ、この地図の向きが違うとか?」
「地図じゃなくて、私たちが間違えてる可能性もある」
三人の会話を、秋山は黙って聞いていた。
「秋山は、どう思う?」
鼎が尋ねる。
秋山は道祖神を見た。
「分かりません」
「最初に見たときの向き、覚えてない?」
「覚えています」
「じゃあ――」
「覚えていることが、正しいとは限らないので」
秋山はそれ以上、何も言わなかった。
五和も、同じようなことを言っていた。
それでも鼎は、なぜか秋山の横顔から目を離せなかった。
「次、行く?」
美羽が空気を変えるように地図を開いた。
「近いのは橋だな」
鼎が答える。
「今度こそ近いといいけど」
「地図では近い」
「さっきもそれ言ってた」
美羽が笑う。
葵はすでに歩き始めていた。
「行かないの?」
三人は葵の後を追った。
秋山も静かに歩き出す。
鼎は最後に、もう一度だけ道祖神を振り返った。
二体の石像が、道の脇に寄り添っている。
道路側を向いているようにも見える。
少し斜めを向いているだけのようにも見える。
南がどちらなのか、もう自信がなかった。
鼎は報告書を開いた。
向きは南側。
自分で書いた文字の下へ、一行だけ書き足す。
再確認時、道路側を向いているように見えた。
動いたとは書かなかった。
境界とも書かなかった。
見えたことだけを書き残した。
五和の声が、頭の奥に残っていた。
――記憶を信じるな。
今回も読んでいただき、ありがとうございます。




