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Marbling 現実と伝承が交わる、その先へ。  作者: 赤足


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11/14

11 記憶


 町へ出た受験者たちは、それぞれ異なる方向へ散っていった。


 一人で歩き始める者。


 近くにいた者同士で話し合う者。


 地図を開いたまま、体育館の前から動けずにいる者。


 鼎もまた、しばらくその場に立っていた。


 地図には、いくつかの目印が記されている。


 神社。


 橋。


 古いトンネル。


 道祖神。


 だが、どこから調べろとは書かれていない。


「境界だと思った場所を記録しろ、か……」


 境界を見た経験ならある。


 ただ、あの山で鼎にできたのは、五和の後ろを歩くことだけだった。


 止まれと言われれば止まり、見るなと言われれば目を逸らす。


 自分で境界を見つけろと言われても、何を基準にすればいいのか分からない。


 鼎は地図の中から、最も近い印を選んだ。


 道祖神。


 体育館から歩いて十分ほど。


 理由はなかった。


 少なくとも、地図の上では近かった。


 住宅地へ入る。


 古い家と新しい家が入り交じった、ごく普通の町並みだった。


 庭先では洗濯物が揺れている。


 子どもたちが自転車で走り抜ける。


 開け放たれた窓からテレビの音が漏れ、どこかの家からは醤油の甘い匂いが漂っていた。


 境界と呼べるようなものは、どこにも見当たらない。


 電柱。


 側溝。


 細い路地。


 空き家。


 錆びた看板。


 閉じたままの雨戸。


 怪しいと思えば、どれも怪しく見えた。


 そのたびに、体育館で聞いた凪の言葉が頭をよぎる。


 ――異変を見つけようとするな。


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


「そっち、道祖神の方?」


 後ろから声がした。


 振り返ると、一人の女性が立っていた。


 肩まで伸びた明るい髪。


 体育館にいた受験者の一人だ。


 地図を片手に、鼎の隣へ並ぶ。


「たぶん」


「たぶんって何?」


「俺も地図を見て歩いてるだけだから」


「そっか。じゃあ同じだ」


 女性は気軽に笑った。


「安曇美羽。よろしく」


「千曲鼎」


「ちくま、かなえ?」


「ああ」


「へえ、珍しい名前。なんか格好いいじゃん」


「そうか?」


「一回聞いたら忘れなさそう」


 美羽はそう言って、もう一度地図へ目を戻した。


「これさ、みんな別々に行けって意味なのかな」


「何も言われてない」


「じゃ、一緒でもいいってことじゃん」


「試験なのに?」


「駄目なら最初に言うでしょ」


 美羽はそのまま先へ歩き出した。


 鼎は少し迷った末、その後を追った。


 数分歩くと、道の脇に小さな石像が見えた。


 二体の人影が、寄り添うように彫られている。


 表面は風雨に削られ、顔はほとんど分からない。


 足元には、枯れかけた花と、日に焼けた空き缶が置かれていた。


「これかな」


 美羽が石像の前でしゃがみ込む。


「道祖神って、もっとお地蔵さんみたいなの想像してた」


「場所によって違うんじゃないか」


「詳しい?」


「全然」


「知ったかじゃん」


「違うだろ」


 美羽が笑った。


 鼎は報告書を取り出した。


 日時。


 場所。


 観測したこと。


 何を書けばいい。


 道祖神がある。


 石が古い。


 顔が削れている。


 二体並んでいる。


 足元に花がある。


 どこまでが観測で、どこからが解釈なのか。


「何か分かった?」


「いや」


「私は分かった」


 美羽が立ち上がる。


「古い」


「見れば分かる」


「あと、ちょっと怖い」


「それは感想だろ」


「感想も観測じゃないの?」


 鼎は答えられなかった。


 美羽が怖いと感じたこと自体は事実なのかもしれない。


 だが、それは道祖神が怖いものだという意味にはならない。


 鼎は報告書に書いた。


 道沿いに石像が二体ある。


 表面は摩耗している。


 足元に枯れた花がある。


 向きは南側。


「向きまで書くんだ」


「何か変わったとき、分かるかもしれない」


「異変探してるじゃん」


 鼎は鉛筆を止めた。


「……そうなるのか?」


「知らないけど」


「それ、南を向いてないぞ」


 背後から声がした。


 振り返る。


 短い髪の女性が立っていた。


 体育館で前方に座っていた受験者だ。


「道路側を向いてる」


 女性は道祖神を一瞥し、報告書へ何かを書き込んだ。


「道路は南側だろ」


 鼎は地図を見る。


「この道、東西に走ってる」


 女性が言った。


 鼎は太陽の位置を確認した。


 自分たちが歩いてきた方向。


 地図に記された川。


 考えるほど、方角が分からなくなっていく。


「松本葵」


 女性はそれだけ名乗った。


「二人とも、体育館にいたよね」


 美羽が言う。


「ああ」


「一緒に回る?」


「別にいい」


 素っ気ない答えだったが、葵はその場を離れなかった。


 三人で地図を広げる。


「この道が東西なら、私たちはこっちから来たことになる」


 葵が地図を指す。


「でも、そこは川じゃない?」


 美羽が言った。


 地図では、鼎たちが歩いてきた方向に川が流れている。


 だが、川を渡った記憶はない。


「道を間違えたんじゃないか」


 鼎が言う。


「曲がってないよ」


 美羽は即座に否定した。


「ずっと真っすぐだった」


「一回、細い道を通った」


「通ってないって」


「通った」


「え、本気?」


 二人は顔を見合わせた。


 美羽が嘘をついているようには見えない。


 鼎にも、嘘を言っているつもりはなかった。


 古い木造の家。


 壁に立てかけられた錆びた自転車。


 家と家の間を抜ける細い路地。


 日陰に生えた湿った苔。


 濡れた土の匂い。


 確かに通ったはずだ。


「二人とも違う道から来たんじゃないの」


 葵が言う。


「途中で会ってから、ずっと一緒だった」


「なら、どちらかが間違えてる」


「私じゃないし」


「俺だって」


 言い返した瞬間、五和の声が脳裏に蘇った。


 ――記憶を信じるな。


 鼎は口を閉じた。


 自分が覚えていることと、実際に起きたことが同じとは限らない。


 美羽の記憶が間違っているとも限らない。


「どうしたの?」


「いや……」


 鼎は地図を畳んだ。


「どっちが正しいか、今は決めない方がいい」


「なんで?」


「分からないから」


 美羽は納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。


 そのとき、向こうから一人の青年が歩いてきた。


 鼎より少し年下に見える。


 黒い髪に、白いシャツ。


 目立つ服装ではない。


 それなのに、三人の視線が自然と青年へ向いた。


 歩き方が静かだった。


 足音を立てないようにしているわけでもないのに、近づいてくるまで誰も気づかなかった。


 青年は道祖神の前で足を止めた。


「ここを調べに来たの?」


 美羽が声をかける。


「はい」


 青年は小さく頭を下げた。


「秋山清次郎です」


「千曲鼎」


「安曇美羽」


「松本葵」


 美羽が三人を順番に示した。


 秋山はもう一度、丁寧に会釈した。


 若い顔をしているのに、仕草だけが妙に落ち着いていた。


 覗き込むでもなく、周囲を調べるでもない。


 しばらく石像を見てから、報告書を取り出した。


「何か分かりました?」


 鼎が尋ねた。


「いいえ」


 秋山は短く答えた。


「何も」


 鉛筆が紙の上を走った。


 書き終えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。


「何て書いたの?」


 美羽が尋ねる。


「道祖神がある、と」


「それだけ?」


「今のところは」


 秋山は報告書を閉じた。


 物足りない答えのはずだった。


 だが、その言い方に迷いはなかった。


 鼎は自分の報告書を見る。


 石像の向き。


 花の状態。


 道路との位置関係。


 書き込んだ文字が、急に余計なもののように見えた。


「向き、さっきと違わない?」


 葵が道祖神を見ながら言った。


 美羽も石像の正面へ回り込む。


「え、そう?」


「道路側を向いていたと思う」


「俺は最初から南側だと思ってた」


 鼎は報告書を確認した。


 向きは南側。


 確かに、自分の字でそう書かれている。


 だが、いつ方角を確認したのか思い出せなかった。


 太陽を見た。


 地図も見た。


 それだけだったような気もする。


「道路側と南側って、同じじゃなかった?」


 美羽が地図を広げる。


「この道が東西なら違う」


 葵が答えた。


「じゃあ、この地図の向きが違うとか?」


「地図じゃなくて、私たちが間違えてる可能性もある」


 三人の会話を、秋山は黙って聞いていた。


「秋山は、どう思う?」


 鼎が尋ねる。


 秋山は道祖神を見た。


「分かりません」


「最初に見たときの向き、覚えてない?」


「覚えています」


「じゃあ――」


「覚えていることが、正しいとは限らないので」


 秋山はそれ以上、何も言わなかった。


 五和も、同じようなことを言っていた。


 それでも鼎は、なぜか秋山の横顔から目を離せなかった。


「次、行く?」


 美羽が空気を変えるように地図を開いた。


「近いのは橋だな」


 鼎が答える。


「今度こそ近いといいけど」


「地図では近い」


「さっきもそれ言ってた」


 美羽が笑う。


 葵はすでに歩き始めていた。


「行かないの?」


 三人は葵の後を追った。


 秋山も静かに歩き出す。


 鼎は最後に、もう一度だけ道祖神を振り返った。


 二体の石像が、道の脇に寄り添っている。


 道路側を向いているようにも見える。


 少し斜めを向いているだけのようにも見える。


 南がどちらなのか、もう自信がなかった。


 鼎は報告書を開いた。


 向きは南側。


 自分で書いた文字の下へ、一行だけ書き足す。


 再確認時、道路側を向いているように見えた。


 動いたとは書かなかった。


 境界とも書かなかった。


 見えたことだけを書き残した。


 五和の声が、頭の奥に残っていた。


――記憶を信じるな。

今回も読んでいただき、ありがとうございます。

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