第8話 そこにある境界
森を抜けた瞬間、空気の質がほんのわずかに変わり、同じ風のはずなのに温度の層が一枚だけずれたような感覚が、静かに肌に残った。
木々の間から、建物が見える。
石造りの、小さな教会。
屋根は崩れ、壁には蔦が絡みつき、長いあいだ人の手が入っていないことが一目でわかるほどに荒れている。
それでも、その形だけははっきりと残り、ただそこに“置かれている”みたいに、音もなく存在していた。
「……」
ルティは、そこで足を止める。
意識して止めたわけではないのに、自然と足が動かなくなる。
理由は、わからない。
それでも――
進んではいけないと、体のどこかが先に知っていた。
「……」
じっと、前を見る。
教会へ続く道。
何もないはずの、その途中。
ほんの少し手前。
「……そこ」
小さく、つぶやく。
指が、そっと持ち上がる。
まっすぐではない。
迷うみたいに、ほんの少しだけ揺れながら、それでも同じ場所を指している。
「……だめ」
声は小さい。
けれど、はっきりとしている。
「……」
風が、木の葉を揺らす。
それだけのはずなのに、その一点だけがわずかに違って見える。
光が、ほんのわずかに歪み、空気が重なっているみたいに、奥行きのない層がそこに重なっている。
「……へん」
もう一度、つぶやく。
言葉にできない。
それでも、分かる。
そこは、普通ではない。
「……」
ルティは、一歩だけ前に出る。
慎重に。
確かめるみたいに。
足を、ゆっくりと下ろす。
――その瞬間。
音が、遅れた。
「……?」
ぴたり、と動きが止まる。
踏んだ感覚と、足音が、ほんのわずかにずれている。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
それでも、確かに。
「……」
すぐに足を引く。
そこから離れる。
何もなかったみたいに、森の音が戻る。
「……だめ」
今度は、少しだけ強く。
自分に言い聞かせるみたいに。
「……」
そのまま、動かない。
進めない。
進んではいけないと、体が知っている。
⸻
少し離れた場所。
木の影の中で、それを見ている影があった。
「……」
ガイルは、息を潜めたまま立っている。
少女の動きだけを、じっと見ている。
距離はある。
声は届かない。
それでも――
止まったことは分かる。
進まなかったことも、はっきりと。
「……なんだ」
小さく、つぶやく。
教会までは何もないはずだと、そう聞いているし、そういう場所だと認識していた。
それなのに。
「……」
ルティは、何もないはずの場所を見て、そこから動かない。
そして、進まない。
「……」
ガイルは、視線を細める。
違和感がある。
理由は分からない。
だが、見ていてはいけないものを見ているような、そんな感覚が、かすかに胸に引っかかる。
「……」
一歩、踏み出しかけて。
止まる。
自分でも理由は分からない。
ただ、今は近づくべきではないと、本能がそう告げていた。
「……」
森の風が、すっと抜ける。
その場所をなぞるように。
光が揺れ、葉が揺れる。
――ほんの一瞬。
そこにあったはずの“何か”が、ずれて、消えた。
「……」
それを、ルティだけが見ている。
何も言わない。
ただ、じっと、その場所を見つめている。
⸻
さらに外側。
森の縁に近い場所で、別の気配が動いていた。
「……ここか」
リオンが、低くつぶやく。
足跡を追っていた。
教会の裏手から続く、新しい痕跡。
迷いのない歩き方。
それを辿って、ここまで来ている。
「……」
足を止める。
空気が、わずかに歪んでいる。
目には見えない。
それでも、分かる。
「……重なってるな」
短く言う。
触れてはいけない層が、薄く重なっている。
完全ではない。
だが、開きかけている。
「……先に誰かが触ってる」
視線を、教会の方へ向ける。
その奥。
「……」
さらにその先で、微かな気配が動く。
もう一つ。
人の気配。
「……二つか」
小さく息を吐く。
「面倒だな」
それでも、足は止めない。
一歩だけ位置を変え、見通しの利く角度へ移動する。
⸻
遠くで、ガイルが小さく息を吐く。
「……無茶すんなよ、ルティ」
誰に聞かせるでもない、小さな声。
叱るでもなく、突き放すでもない。
ただ、知っている相手に向けた言い方だった。
「……」
視線は外さない。
動かない。
それでも、いつでも踏み込める距離を保ったまま、静かに状況を見ている。
⸻
森は、何も答えない。
ただ静かに、風だけが揺れていた。




