第6話 古い祈りの跡
森を離れてから、どれくらい歩いただろうかと考えてみても、ルティには時間の感覚がほとんどなく、ただ足を止めずに進み続けていたという事実だけが、ぼんやりと残っている。
知らない道を、知らないままに進んでいるはずなのに、不思議と迷っているという感覚はなく、どこへ向かっているのかも分からないまま、それでも足だけは自然と前へ前へと運ばれていく。
そのときだった。
「……?」
ふと、ルティは足を止める。
目に見えるものがあったわけでもなく、はっきりとした音が聞こえたわけでもないのに、何かが引っかかるような感覚だけが、確かにそこにあった。
空気が、ほんのわずかに重い。
それだけの違い。
「……」
ゆっくりと顔を上げる。
視線の先、少しだけ開けた場所の奥に、それはあった。
古びた石の建物。
屋根はところどころ崩れ落ち、壁には深いひびが入り、長いあいだ手入れされていないことが一目でわかるほどに荒れている。
それでも、その形だけははっきりと残っていて、そこに“何かであったもの”の名残だけが、静かに立っていた。
「……」
ルティは、そっと一歩だけ近づく。
胸の奥が、ざわつく。
さっきまでとは違う感覚。
知らないはずなのに、どこかで知っている気がする。
「……」
足が、自然とそちらへ向く。
草をかき分けるようにして進んでいくと、やがて入口が見えてくる。
扉は半分崩れ、片側が外れて傾いたまま、かろうじてそこに残っている。
中は暗く、昼間であるはずなのに光が奥まで届いていない。
「……」
ルティは、そこでほんのわずかに立ち止まる。
怖い、という感情ではない。
それでも、簡単に踏み込んではいけないような、言葉にならない違和感が、足元を引き止める。
それでも。
ルティは、ゆっくりと足を踏み入れた。
中の空気は、ひんやりとしていた。
石の床は冷たく、踏みしめるたびに足音が小さく響き、その音だけが空間に残る。
「……」
見渡す。
長く伸びた空間の両側には、古びた木の椅子が並び、その奥には小さな台のようなものが置かれている。
何かを置くための場所。
そうとしか言いようのない形。
「……」
ルティは、無意識のまま、その奥へと歩き出す。
一歩ずつ、ゆっくりと。
その途中で、ふと足が止まる。
床に、何かが残っていた。
薄く刻まれた、円のような模様。
かすれていて、ほとんど消えかけている。
それでも——
「……これ」
ルティは、その場にしゃがみ込む。
指先で、そっとなぞる。
触れた、その瞬間。
「……!」
わずかに、光が滲む。
ほんの一瞬だけ、かすかな光が浮かび上がり、すぐに消える。
それでも、確かにそこにあった。
「……」
ルティの目が、ほんの少しだけ揺れる。
胸の奥が、強く反応する。
あのときと同じ。
境界の前で感じたものと、同じ感覚。
「……ザーラ」
思わず、名前がこぼれる。
返事はない。
それでも。
「……」
ここには、何かが残っている。
それだけは、はっきりと分かる。
ルティは、ゆっくりと立ち上がる。
そして、さらに奥へと進む。
壊れかけた台の前まで来る。
その上には、何もない。
ただ、空っぽの石の面だけが残っている。
「……」
それでも。
そこにあったはずの“何か”を、確かに感じる。
「……」
手を伸ばす。
そっと触れる。
冷たい石の感触の、その奥に、ほんのわずかに残っている気配。
「……」
ルティの呼吸が、わずかに乱れる。
頭では理解できない。
それでも、体が知っている。
ここは、ただの建物ではない。
「……ひらく」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
自分で言って、自分で驚く。
知らないはずの言葉なのに、自然に出てきた。
その瞬間。
空気が、かすかに揺れる。
本当に、かすかに。
「……!」
ルティは、はっとして顔を上げる。
光が、ほんのわずかに歪む。
それも、すぐに元に戻る。
何も起こらなかったかのように。
「……」
しばらく、その場から動けない。
胸の奥が、強く鳴っている。
「……だめ」
小さくつぶやく。
理由はわからない。
それでも、それ以上は触れてはいけないと、はっきりと感じる。
ゆっくりと手を引く。
深く、息を吐く。
「……」
静寂が戻る。
壊れた教会の中に、何もない空気が広がる。
それでも、さっきまでとは確実に違っていた。
「……」
ルティは、その場を離れる。
振り返らない。
振り返れば、何かが変わってしまいそうな気がしたから。
入口まで戻ると、外の光が少しまぶしく感じる。
「……」
一歩、外へ出る。
空気が軽くなる。
さっきの重さが、すっと消えていく。
「……」
ルティは、その場で立ち止まり、小さく息を吐く。
「……ここ」
ぽつりとつぶやく。
「……なんか、ある」
はっきりとは分からない。
それでも、ただの通り道ではないと、確かに感じている。
「……」
もう一度だけ建物を見る。
壊れている。
古い。
誰もいない。
それでも、ここは何かが“残っている場所”だった。
「……」
少しだけ考えてから、ルティは前を向く。
そして、再び歩き出す。
今度は、さっきよりもはっきりとした足取りで。
行き先は、まだ分からない。
それでも、進む理由は少しだけ増えていた。
知らないものを、知るために。
そして。
「……ザーラ」
小さく名前を呼ぶ。
風が、やわらかく揺れる。




